科学・人文学・アカデミズム

タイトルの意味
 人文学を大学の中で生き残らせたいならば、大学が人文学を保護する意義をしっかりと説明する必要がある。たとえば人文学が人類に必要であると言ったところで、それを大学が保護する必要があると説明できてはいない。人文学を保護する意義を説明するためには、人文学=humanity=教養、科学=science=実践、そして現在のアカデミズムを分析する必要があるだろう。

現在のアカデミズム
 現代に人文学がどう生き残るかを考えるならば、人文学が根をおろしているフィールドであるアカデミズムがどのような力学で動いているかを考えなければならない。アカデミズムの目的とは何なのだろうか。もちろんそれは知を探究する共同体を作り、維持し、知を蓄積させていくことだと思う。しかしこの論稿で重要なのは、アカデミズムを非アカデミズムの論理で動いている社会がどう見ているかだろう。日頃ニュースや新聞やSNSなどでアカデミズムについて議論が交わされるとき、いかなる価値観が議論を支配しているだろうか。アカデミズムは(ご多分に漏れず)「役に立つ」という観点から論じられるだろう。「役に立つ」という概念をえらそうに分析しても生産的でないので、この文脈では「問題を解決する」「社会の経済的豊かさに貢献する」「人の日々の食事を豪華にしたり、死亡率を下げたり、エンターテインメントを発達させるなど幸福の総量を増やす」というほどの意味だと仮定しよう。このような価値観に沿う限りで、企業の研究開発が行われたり、国家が国民の税金を国立大学の運営交付金私学助成金に回したり、研究プロジェクトの支援費に回したりするのだ。現在、日本のアカデミズムがその存在を国家に保障されているのは、アカデミズムが役に立つと見なされているからだ。

科学=science=実践
 以上のようなアカデミズムは、いわゆる実践的な学問だ。実践とは、ここでは客観世界への働きかけを通して、世界を改変していくことというほどの意味である。人類は歴史を通じてこの客観世界を「正確に」述定し、変化させる方法を洗練させてきた。その方法は一般にscienceと言われるものだ。科学は古典古代においてはせいぜい自然や人間を理解するための一手段に過ぎなかったが、やがて魔術や錬金術などをその有用性や汎用性の面で蹴落とし、積極的に人間の生きやすい環境を作り出すまでに成長してきた。はじめは人間の動物的生活を便利にする技術(これにもscienceの意味がある)が発展し、やがて社会的生活を自由に送れるようにし、様々な困難を解決する手段や筋道をわれわれに与え、価値を創造することもできるようになった。世界を「見る」手段であったscienceは、世界に「働きかける」手段となったのだ。
この「転倒」については、ハンナ・アーレントが『人間の条件』で幾度も強調したことだ。簡単に言えば、scienceの権威が認められるにつれ、人間活動の最上位の座が、観想的生活(世界を「見て」色々考える哲学者ライフ)から実践的生活(世界に積極的に「働きかけ」てゆく職人ライフ)にとって代わったのである。昔は何もしないでああだこうだと考えることが最も「人間らしい」活動だったが、いまや「人間たるもの(社会的な)何かを為すべし。」の世界観ということだ 。

人文学=humanity=教養
 それでは、humanityとはいったい何なのか。なおここではhumanityは歴史、文学、哲学、神学といった「人文学」のことを言うことにして、法学や経済学、社会学はscienceと見なすことにする。
 まず、scienceとの違いに着目してみたい。scienceの特徴としては、客観世界とかかわること、体系だっていること、汎用性があること、反復できることなどが挙げられるだろう。これに対してhumanityは主観に関係する。人の記述を相手にするものだからだ。記述と言うのは厳格なルールが定まっていないために、まず体系だっていない。したがってscienceのように積み上げによる効率的な学習を行うことができない。自然言語はその意味の範囲が明確でないために、汎用性もない。つまり、狭義の科学者が数学的な手段でコミュニケーションをとっているようにして、共同体の中で共通コードを用いることが(表面的には可能だが)ほとんど不可能である。このゆえに、正解も存在しない。humanityが出した答えには、実験も、概念体系の整合性も、共同体も、応えてくれないのである。そして、強固な体系もコードもないために、反復性がない。だから、humanityは原典にあたることを研究上の最も重要な方法の1つとする。それは以上のような理由によって、ある研究者が他の研究者の論稿を解釈し整理した文章を読んでも、体系を反復することがまったく不可能だからだ。
 
humanityの来る道
 この通り、非常に扱いづらい学(と呼んで良いのかも定かではない )であるhumanityは、どのようにして人類に役立ってきたのだろうか?
 かつてはscienceも限界を迎えるのが早かった。研究はもっぱら個人が行うものだったし、国家をあげて研究資金を補助してくれるわけでもないし、なによりも人間の脳みそしか使うことができなかった。人は他人の考えることを知ることはできないし、社会全体の力学を把握することもできない。地球を外から見つめることなどできないし、宇宙の果てなど論外だった。不可知の領域が非常に大きかったのである。そこで、scienceと双輪を成すかたちで求められるのがhumanityだったのだろう。他人がどう考えるのかを考えるには、まず自分がどう考えるのかを検討して、それを同じ人間である他者に投影してみればよい。社会を見るなら、人が社会を見て書いた文学や他の芸術作品を観察してみればわかることがあるだろう。あるいは、思いつく限りの社会形成を物語って、現状と比べてみればいいかもしれない。宇宙のことはわからないけど、なんとかアナロジーで像を描くことができるかもしれない。人間や自然がなぜこれほどよくできているのか、人間はなんのために生きるのか、それはおそらく人間よりも高度な存在にしかわからない。自然言語を用いるhumanityは、方法が厳格なscienceよりも自由に論じることができる(ように感じられる)。それだけに、scienceの行き届かないところはhumanityの領域だった。
実際、よく学んで知性を身につけた人の直観は、おそらく信頼に足るものだっただろう。不可知の領域が大きい状況では、とにかく肉眼で見えるものを正確にとらえる訓練さえすれば、誤りに陥ることは少なかったに違いない。そういうわけで、scienceは専門的で論じる範囲が狭いのに対し、humanityは全般的な語りができていたために、humanityが知性を持った人のやることであるという認識もあったのかもしれない。そのような人々は教養人と呼ばれた。教養は、もつことを目的とされるほどの性質だった。観想的活動が最も人間らしい活動であったと言われていたことも、上のような状況では成り立っていたのだろう。
 
humanityのデフレーション
 しかし、scienceは不可知の領域をどんどんと開拓していくことに成功した。とくに近代科学の方法が確立して以来、世界を整合的に説明することに成功し、人々の生活を楽で豊かにしたのは紛れもなく近代科学の方だった。それでもなお、複雑性の高い社会、生物、宇宙などというものについてはscienceも太刀打ちできなかった。決定的なのは、おそらく科学の大規模化とコンピュータの登場だろう。二度の世界大戦を経る中で、科学は個人の研究から共同体のプロジェクトへと変身を遂げ、学問のシステムもそれを念頭に整備されるようになった。アメリカで勃興したプラグマティズムという思想は、明確にこの影響を受けている 。また、コンピュータの著しい発展によって近代科学でも立ち向かいようのなかった領域にscienceは進み、その成果は今を生きる我々には明らかなところである。反対に、humanityはその組織化の流れにうまく適応することができなかった。その原因は上述の通りで、そもそも共同プロジェクトとして進めることのできるような性質を持ち合わせていないのだ。また、研究の対象をコンピュータが処理することのできるような定量的なものに還元することも、humanityはできない。それはscienceの十八番で、コンピュータはせいぜい補助手段にしかならない。そのため、体系的な学習を行った科学者が(非アカデミズム社会に見えるかたちで)様々な問題を解決していくscienceに対して、humanityは問題を解決することができないどころか、そもそも何をやっているのかわからないとまで言われてしまう。そして、少なくとも日本のアカデミズムにおいては、humanityは国民の血税を浪費して空理空論をこねる人々のあつまるところとして、その非生産的な面が批判されるという流れが繰り返されることになる。

humanityの位置づけ
それでは、本当にhumanityは問題を解決したり、冒頭にあげた「役に立つ」あり方として力を発揮したりできないだろうか? humanity役立たず論の核心である。上にあげた分野のうち、歴史、哲学、文学についてそれぞれ(!自己流で!)検討してみる。これがうまくいけば、アカデミズムの中で人文学を守ることができる。
・歴史:歴史は「物語る」という面では非常に人文学的だが、そもそも実証研究はscienceの方法に沿って行うことが可能だろう。役割で言えば、間違った歴史を物語ることを防ぎ、社会のアイデンティティを正確に述定するためものとして不可欠だろう。ところで、例えば歴史学科を廃止したとして、学術研究において正確な歴史事実をアーカイブすることは必然的な要請だから、そもそも歴史学の営みをなくそうと思ってなくせるものでもないだろう。しかし、各学科に○○史という個別の歴史を物語る人や組織があったとしても、歴史学の方法をメインとして学習し物語を構成することは、非アカデミズム社会にとって必要なことだから、組織としての歴史学科は廃止しないほうがよいだろう。
・哲学:哲学は論じる範囲が多種多様であり、科学の基礎づけから人生の意味などというものまで広く扱うから一概に結論づけることはできない。しかし、まず哲学によって人間や世界を正確に認識しようとするような(「である」を扱う)態度は排除されるべきだろう。いま人間や世界について述定しようとするならば、有用性と整合性はscienceの方法によって蓄積されてきた知識の体系の方に明らかに分があるのであり、それを避けて通ることは嘘だからだ。したがってこの面では、哲学はscienceで用いられる概念の使用法を明確にするとか、理論の出発点を吟味するとか、そういう付随的な学として存在する。でもこういうことは哲学者よりも前線にいる当の分野の学者がやっているはずだから、哲学科という組織として扱うことに有意な有用性があるのかは疑問である。「哲学は問題を発見し、科学が解決する」というのは、おそらく誤りだと思う。問題を発見しているのは、当該分野の第一人者だろう。そのような意味では、哲学の研究者が科学者と相互に影響を与えあっているというよりは、前線に立つ学者が必然的に哲学をやっているのだろう。一方、哲学は「べし」を扱う分野にはつよい。なぜならscienceで「である」をどれだけ正確にやり遂げても、「べし」は導出されないからだ。「べし」は経験をよりどころとしつつも、思弁の世界から降りてくる領域だ。法学や社会学も規範的な議論をするときはhumanityの手を借りざるを得ない。したがって「べし」の領域だけは、哲学がアカデミズムの中で活躍できるし、保護される必要のあるところだろう。それでもなお、「べし」についての議論が実践の場に影響を与えているのかどうかを目に見えるかたちで検証することはできないため、非アカデミズム社会にその有用性をしっかりと説明していく必要があるだろう。
・文学:人文学が攻撃されるときに最も頻繁にやり玉にあげられるのが文学だろう。文学は外的な目的としては、人が表現したものを解釈すれば、例えばその人が育った社会について考えることができるし、人間の思考というものに類型を見出すこともできるかもしれないというようなことが挙げられるだろう。しかしこれまでの概観でそのようなことはscienceによってより正確に述定することができるようになったということがわかるので、いまそのような意義があるのかはわからない。卓越した感性を持つ人々のみずみずしい情動を汲み取ることは、文学研究の専売特許かもしれない。だがそのような研究を国民の血税を投入して行うことを非アカデミズム社会が認めてくれるのかどうかは、わからない。
 humanityは見える範囲の世界をうまく述定し、改変することができるというわかりやすい指標がないために、その有用性も感じづらい。それだけに、「社会になくても困らないんじゃない?」という疑問を覚えるのも理解できる。しかし上で見たように、humanityが必要とされる領域はまだまだある。また、個別の学問の有用性のほかに、常に社会を多面的な価値観(価値観は「である」によって記述することはできない)によって観察し批判する人々の共同体を確保し、社会変革の可能性を担保するなどhumanity全体としての有用性もある。いずれにせよ、人文学をアカデミズムで守りたいならば、「体系だった説明を」、「共同体のリソースを部分的に投入する正当性を意識しつつ」、「多くの人の目に見えるかたちで積極的に」行わなければならないだろう。それを放棄して共同体のリソースを無用に消費せよと主張したところで、むしろ逆効果になってしまう。