無性別主義を夢想する

性別神話と言うべきものについて

10代~20代で恋愛経験を積んで、30歳くらいで結婚して子どもをもうける。そうしたら女性は家人として、男性は稼ぎ手として、家庭を支える。こうすることで、個人が幸せであるばかりか、人間の再生産を行い、国家民族を維持することができる……。以上のような、とくに近代以降ヨーロッパからアメリカ、日本などで「流行」した、家族形態を基本とした社会は、20世紀後半からの少子高齢化フェミニズム運動、性的マイノリティの台頭による性別概念の変容などなどに伴って、徐々にその歪みが発見されてきた。

わたしは、今日の日本や欧米における問題の大きな要因の1つとして、「性別神話」とでも言うべきものが長く影を落としていることがあるように思う。すなわち、男・女という区別、さらにセックス、恋愛、結婚といったもろもろの男女関係に関する「神話」が、さまざまなかたちで語られ、その神話を強化してきたのだ。さまざまなかたちというのは、まずは中世や近世におけるキリスト教(これもいろいろあるが)と結びついた政治権力による構図の規定にはじまり、近代から戦後において加速した小売やサービスに携わる企業の販売戦略によるイメージの固定化、そしてそれと並行して根付いてきた社会通念などが挙げられるだろう。

現代思想の一大潮流としてある、フェミニズム運動は、女性参政権獲得から考えれば(ここを出発点として良いのかはあやしい)100年近くに及ぶ。この思想は既存の男女区別に挑戦したものであるが、いまだ男女区別を超越する段階には至っていない(そもそもそれは目的ではないだろう)。しかし、重要なのは、フェミニズムに加えて、LGBTQの権利獲得運動も盛り上がりを見せているというところである。わたしは、今日のようなアイデンティティの問い直しの風潮を鑑みて、そろそろ、次の段階に進む可能性が開けてきたのではないかと思う。

わたしは、以上のような神話を解消し、無性別主義(これは完全に造語)とでも言うべき姿勢を構想してみたいと思う。近現代を乗り越える最終局面への1つの足掛かりとして、試案(というより夢想)してみたい。

無性別主義へ

 無性別主義とは、基本的には男女の区別、とくにその身体上の区別をできるだけ極限にまで抑え、男女の区別から生じていたさまざまな軋みを解消しようとする姿勢である。括弧に入れられ得るものはすべて括弧に入れてしまおうということである。ここにおいてわたしは、何よりも1つのことが重要だと考える。すなわち、

 

セックスから特別な意味を引きはがすこと。

 

これである。もっとも、これは出発点ではない。なぜなら、解消するべき対象であるところの性別神話と、相互に結びついているからである。どちらが卵なのか、決めようがないのである。だから、別の方向から性別というものを問い直させるような契機があって、その問い直しと並行して行わなければならないのである。これについては後述される。

セックスは、非常に大きく男女の身体性に依って成り立つコミュニケーションである。そしてコミュニケーションの段階としては、最後に来るものである(本当か?)。一般的に、恋人であるかどうかは、セックスが許されるかどうかで決まると言ってよい(本当に本当か?)。また、最近は必ずしもそうではないが、子どもをもうける際にはセックスをしなければならない。このような、コミュニケーションとしての特異性が、「性別神話」を維持し、あるいは強化する大きな要因であると思われる。したがって、セックスから特別な意味を引きはがすことは非常に重要なことである。しかし、無論これはかなり困難な業であることは疑いえない。

セックスを格下げする

具体的な策として、何が考えられるか。わたしはセックスを、単なるコミュニケーションに「引き下げる」ことで、1つの方向が開けるのではないかと考える。セックスという行為は、大きく2つの要素に還元される。2人で性欲を解消するということ、かつ相手との特別親密な関係を意識したコミュニケーションをとるということ、この2つである*1。こう考えたとき、セックスは形式としては、たとえば2人で食事をすることにかなり近いのではないだろうか? すなわち、2人で(とくに同じものを食べた場合は)食欲を満たすということ、そしてもちろん食事中にさまざまなかたちでコミュニケーションをとるということ。そう考えると、セックスから愛を確かめ合うとかいう意味をなくしてしまって、食事をするとか、一緒に遊ぶとか、そういうレベルのコミュニケーションに認識を変換するということは、なしうることではないだろうか?

格下げするための2つの契機

しかし上のようなことが実現されるには、セックスが「男女間で」「恋人の間で」行われるものであるという強固な社会通念を打破しなければならない。ここで重要なのが、LGBTQ運動が盛り上がっている、そしてSNSの普及による簡単な「出会い」が一般化しているという、この状況があることである。これが上で述べた別の方向からの契機である。

言うまでもなく、LGBTQはセックスや恋愛が男女間で行われるものであるという「常識」を破壊する運動である。これは政治的にはおそらく結婚の権利というかたちであらわれているだろう。レズやゲイならばまだよいとして、Xジェンダーの人々などはかなりアイデンティティで悩んでいるという人も少なくないだろうと思われる。このような人々が存在するということはすなわち、男女の区別を「もうける」ことに疑問をさしはさむ余地があることの強力な証拠になる。ジュディス=バトラーが言うように、ジェンダーのみならずセックスも文化的に形成されているものなのであると考えることもできるだろう。この観点からセックスを捉えたとき、それは何も男女で行われるものではない。せいぜい、相手が人間であり、そしてしたいと思う相手であれば良いのである。

さらに現在、SNSのインフラ化によって、簡単に「出会う」ことが可能となった。これに伴って、セックスのエンターテインメント化とでも言うべき状況が生じている。これから必死に声を上げなくとも、すでに一部の人々の間では(表面化しただけで昔からそうだったのかもしれないが、しかし表面化することが重要であるとも言える)セックスは恋人とする特別なものではなく、条件がそろえば誰とでも行い得るものになっている。したいのだから、すればいい。この態度を推し進めていけば、セックスが恋人の間で行われる特別なものであるという通念を破壊することができるだろう。食事と同じ、一緒に遊ぶのと同じものと考えればいいのである。

 

 

 

こうしてセックスから特別な意味が失われれば、男女関係の、とくに性欲にまつわる部分の問題がかなり解決(解決されなくとも解消)されることになるだろうと思われる。無性別主義から導かれる社会の変容については、後の記事に譲りたいと思う。

*1:ここでは、生殖という目的があることは意図的に無視する。話が混み入ってしまう。