誠実であることは不可能だ

人に対して誠実であることは難しい。誰それは誠実だというとき、誠実という言葉は何を表しているだろうか。この観点から考えることで、誠実であることの困難さ、もっと踏み込んで不可能さを考察してみたいと思う。

たとえば、うそをつく人は誠実とは言えないだろう。なぜうそをつくと誠実ではないのだろうか。うそをつくとき、うそをつく人は何を考えているだろうか。たとえば、うそをついて相手が困惑する様子を見たいときには、相手を或る種の玩具としてとらえているといっていいだろう。相手の人格をないがしろにしておいて、とりあえずの反応で自分が満足すればいいというわけだ。また、相手を出し抜きたいときには、より露骨に相手の人格を無下にしていると言っていいだろう。相手を、うそをつくという仕方で操作しているのだ。

つまり、うそをつくことが誠実でないのは、相手の人格を尊重せず、自分の欲望を満たし目的を果たすための手段として相手のことを利用しているからだと言えるだろう。

たとえば、暴力を振るうのは誠実ではないというのは合意を得られるだろう。これもうそをつく場合と同様にして、暴力を振るうことが目的であるにしろ、相手に言うことを聞かせるなどの手段として暴力を振るうにしろ、相手を自分の欲求を満たすための手段として利用していることが問題なのだ。

以上のことから考えると、誠実であることには、相手の人格を尊重し、相手を目的として扱うということが決定的に重要であることがわかってくる。この際留意が必要なのは、誠実であることは態度の問題であるということだ。たとえば上の例に沿って、暴力を振るうことで、振るわれた相手がより強い痛みに耐えることができるようになったとしよう。このとき、暴力を振るった当人が相手に対して誠実であったとは到底言えないということは、我々の日常の感覚としてある。誠実とは結果の良し悪しではなく、相手を尊重し、常に相手を目的として扱うという、持続的な態度のことなのだ。

さて、基本的な誠実概念の分析は以上のようなものになるだろう。一見、誠実であることは可能であるように思われる。実際問題、人格をないがしろにするという状況はほとんどないのではないか? ところが、誠実であることをこの概念に基づいて追求すると、非常に大きな困難にみまわれることになる。

われわれには、少なくない友達がおり、あるいは恋人がいることだろう。普通の感覚として、われわれは彼ら、彼女らのことを大切に扱っていることだろう。しかしここで1つの問題が提起される。

そもそも、なぜわれわれは友達をつくり、あるいは恋人をつくろうとするのだろうか?

ある人は、友達や恋人はつくるものではない、自然にできるものだと言うだろう。ことの真偽はさておき、自然にできることが本当だったとして、それでも問いは同じである。

われわれは友達や恋人という関係を、どのようなものとしてとらえているだろうか?

最も皮相な関係で言えば、友達がいないことによって、大学の講義を休んだ時にノートを貸してくれる人がいない、勉強していてわからないところを聞くことができないといった不都合が生じるから、友達を維持するという場合がある。もっと深い関係を考えると、悩みごとなどを相談することができない、体験を共有する人がいなくてむなしい、さびしいので友達がいた方が良いという場合がある。

恋人になるともっとプライベートな領域になって、そもそもいるという事実に価値がある(これは友達もそう言えるが)、特定の体験だけでなく、日常をも共有できる相手がいる、愛情を相互に与えあうことができるから恋人はもちろんいた方が良いということになるだろう。

ここで、誠実であろうとする態度をもって、問わなければならない。以上挙げた中で、相手を手段として扱っていないという例が1つでもあっただろうか? それとも、上のような例は恣意的な挙げ方で、ほかに相手の人格そのものを目的として扱うという可能性があるだろうか?

このように言う人もいるだろう。とくに恋人に限って言えば、愛情を相互に与えあうことで相手も幸福になっているはずだ。にもかかわらず、恋人を手段として扱っていると言えるのか。

ここで誠実であるためには、相手との関係において自分の利益を目的としてはいけない。常に相手の人格を尊重しなければならない。しかし、恋人にするとき、我々はその人を「選択」する。この「選択」を誠実に行うとき、それは相手がこちらと恋人になりたいという要望に応えるかたちでしかあり得ないということがわかる。このことから導かれる結論は、誰にも要望されない限り、恋人をつくるという選択は相手を手段として扱うということになるし、あるいは複数人から要望されたときには、できるだけそれに応えなければならないということだ。なんとも受け入れがたい結論である。

友達についても同様だ。我々は、友達を「選択」している。誠実に友達をつくるならば、相手の要望に応えるというかたちでしかあり得ないが、そのような場合はほとんどないからである。それどころか、相手の要望に応えるその時にすら、われわれは自己利益を考える。いま向かいにいるこの相手と、どれほどの距離感が自分にとって最も良いのかと考えざるを得ないのである。相手のことを思って友達になるというのは、なんと傲慢にすら聞こえるのである。

このように考えると、われわれが誠実に友達や恋人関係を形成、維持することはほぼ不可能と言って良い。そこに「選択」という契機がある以上、すべては不誠実な関係へと陥ってしまうのである。このインモラルな関係が成り立っているのは、いうなればお互いに利用し合うという暗黙の了解があるからである。

しかし、われわれはこのインモラルな関係をやむを得ないものとしてストップしてしまう必要はない。むしろ、ここから誠実であることへと進んでいく義務がある。一度「選択」してしまい、その人と友達あるいは恋人になれば、1対1の関係が形成される余地がある。そうなれば、われわれはその関係のうちで誠実であることができるのである。ただ、この誠実さは友達と恋人でまた違った様相を見せる。

恋人は1人しかいない。2人以上作った瞬間、誠実さはあっという間に瓦解する。ゆえに、恋人との関係で誠実であろうとすることは相対的に困難なことではない。

しかし、友達は何人もいる状態が許容される。むしろ、多ければ多いほどその人の人格がすばらしいというような評価もされる。ところが、ここで数々の友達の中に待遇の差をつけることを考えよう。このとき、我々は同じ友達の枠の中で「選択」を行っている。すると、我々は友人を手段として見ることになり、誠実であることができなくなるのである。わかりやすいのは、ノートを貸してもらうためだけに友達面をする例だ。つまり友達に対して誠実であるには、すべての友達を等しく尊敬せねばならないのだ。これは非常に困難なことだろう。真に誠実であろうとすれば、そう多くは友達を持つことはできないはずだ。

以上が誠実であることの困難さ、あるいは不可能性をわたしなりに分析してみた結果である。まったく誠実であることは不可能だが、わたしはそれでも誠実であろうとすることに邁進したい。