ちょっと文章を書いてみる

純理部会日記 2017年7月20日

某所で『純粋理性批判』の読書会をしているので日記をつけることにしました。テキストは篠田英雄訳、岩波文庫

本当は先験的論理学の最初からやろうと思ったのですが、めんどうで引き延ばしているうちに次の回がやってきてしまった。ということで中途半端なところから失礼します。

 

参加者 O、K、わたし

pp.133~149

 

Ⅳ 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区別することについて

 ここは基本的にⅢを受けて、「純粋悟性の単なる形式的原理を実質的に使用」することの危険を再度説明している。「純粋悟性だけをもって対象を総合的に判断し主張しまた決定するという僭越を敢てすると、この分析論の誤謬が生じるのである。」つまり、神の存在を悟性を正確に用いて論証したところで、実質的に対象の存在が認識されなければまったく意味がないということだ。ちなみに用語がわかりにくいが、分析論も弁証論も、なにかの「巧術」ではなく、批判のことである。

 

先験的論理学 

第一部 先験的分析論

 先験的分析論において要件が4つ。

 (1)ここで述べられる概念はすべて純粋概念である。

 (2)純粋概念と言うのは、感性や直観に属するのではなく、思惟と悟性とに属するもののことである。

 (3)これらの概念はすべて基本的概念である。派生していたり、合成されたものではない。

 (4)これらの概念の表は完全であり、純粋悟性のすべてをもらさず包括している。

 さて、これらを完全なかたちでまとめるにはどうすればいいのか? それは、a prioriな悟性認識の全体という理念と、その理念に基づいた分類とによって行われる必要がある。さらに、これらの概念を互いに関連づけて1つの体系にしなければならない。ここには、カントの有機体への意識がある。

 先験的分析論は純粋悟性の概念(カテゴリー)と、純粋悟性の原則とについて論じる。

 

第一部第一篇 概念(カテゴリー)の分析論

第一章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて

 先験的哲学は、純粋悟性の概念を1個の原理に従って残らず発見するし、またその「責務がある」。

 

第一部第一篇第一章第一節 悟性の論理的使用一般について

 悟性の認識は直観的(intuitiv)ではなくて、論証的(diskursiv)である。直観は感性に基づくが、概念は機能(Funktion)に基づく。ここで言う機能とは、種々の表象を共通な1つの表象のもとに集めて、これらの表象に秩序を与える、というような作用の統一のこと。

 悟性は高次の表象を思惟し、それによって種々の現象を間接的に表象する。ここでは、『すべての物体は可分的である』という例がある。可分的という概念により、可分的であるような様々な現象を間接的に表象しているのである。ここから、悟性は判断の能力であるということが導かれる。しかもそれは可能的なのである。例えば、『すべての金属はいずれも物体である』という判断において、悟性は我々がまだ見ぬ金属についても、『物体である』という概念を用いて間接的に表象している(=述語になっている)。このような統一(述語によって多様な現象を高次の表象にまとめること)のパターンをすべて挙げてしまえば、それが悟性の認識の全体である。

 

第二節 判断における悟性の論理的機能について

 ここであの有名な図表が登場。カント曰く、これで表示は適切である。つまり完全であるということだ(ホントか?)。

1 分量―全称的判断(すべてのAはBである)

             ―特称的判断(若干のAはBである)

             ―単称的判断(このAはBである) 

2 性質―肯定的判断(AはBである)

     ―否定的判断(AはBでない)

     ―無限的判断(Aは非Bである)

3 関係―定言的判断(AはBである)

     ―仮言的判断(AがBならばCはDである)

     ―選言的判断(AはBであるかさもなければCである)

4 様態―蓋然的判断(AはBであり得る)

     ―実然的判断(AはBである)

     ―必然的判断(AはBでなければならぬ)

次の数字は上述の数字と対応している。

(1)論理学者たちは単称的判断について、その外延が定まっているという理由で全称的判断と同じだと言う。つまり、特称的判断のように、若干のものには当てはまり、若干のものには当てはまらないという場合がないからだというのだ。カントは彼らの主張を受け入れつつも、両者は単一性と無限性との関係をなし、本質的に異なるという。カントの考えとしては、確かにAはBであるという様式は同じなのだが、1では判断の分量に注目しているのだから、やはり分けなければいけないだろうというところだろうか。

(2)ここで我々はかなり悩まされた。カントは、一般論理学が肯定的判断(AはBである)と無限的判断(Aは非Bである)とを同一視することを問題にする。確かにどちらも「~である」という形式は同じだ(ドイツ語ではsein)。しかし、無限的判断は、概念を増やす(ここでは、概念の情報が増えるということ)ものではなく、肯定的規定をなんら与えないというのである。たとえば、『霊魂は不死的である(非―可死的である)』という判断において、我々はまずあらゆる可能的存在者のうち、可死的であるものを取り除く。そうして残った無限に存在する不死的なものの中に、霊魂が入っていると判断する。しかし、このような集合は依然として無限集合である。だから、霊魂の概念が増すことはない。

 

……そうだろうか? 我々の自然な感覚としては、集合が狭まっているという点で、概念が増していると言えるのではないだろうか? それとも、肯定的な規定か否かというプロセスの違いだけに注目せよとカントは言っているのだろうか? しかし、「概念が増えない」という結果の違いを示唆する記述がある。我々はここで紙とペンを取り出してあれこれ考えてみたが、やはり結果が異なるとはどうも思えなかった。ただ、無限的判断の場合、Bと非Bの二項対立で判断しているのに対し、肯定的判断や否定的判断はA,B,C,……とある中から、唯一つB という述語をもって主語を規定しているという違いはある。だが、これにしても結果が異なるとは思えず、我々にとってはかなり理解に苦しむ分類であった。

 ここで、Oくんが西洋哲学の無限的判断の文脈について示唆を与えてくれた。たとえば古代ギリシア哲学ではダイモーンが「これこれはしてはいけない」とささやくが、決して何をすべきかは教えてくれない。また、神の存在についても、「非Bである」というかたちで記述されることが多かったという。なるほど、確かにダイモーンの例はわかりやすい。「これこれをしてはいけない」というささやきは、「これこれをせよ」という啓示に対して、あまりにも貧弱な情報量である。

 でもこれって、否定的判断なのではないか……。

 

(3)判断における思惟の関係は、(a)主語と述語の関係、(b)理由の帰結に対する関係、(c)区分された認識と区分によって生じたすべての選択肢相互との関係、に限られる。(b)については、たとえば『完全な正義があるならば、不逞な悪人は処罰される』という判断において、『完全な正義がある』と『不逞な悪人は処罰される』のおのおのの真偽は問題ではない。これは帰結の関係だけを示す。(c)については、我々が選言的判断を行うとき、たとえば『AはBであるかCであるかDであるかのいずれかである』というとき、我々の世界認識はこの3つの述語で完全に描写されるということである。隠されていたEが出てくるなどということはない。

(4)判断の様態は、蓋然的、実然的、必然的判断に分類される。これは判断の内容には関係がない特殊な機能である。蓋然的判断は、悟性がその判断を受け入れる程度のもの(論理的可能性)、実然的判断は、悟性が悟性法則に従って判断を結びつけるもの(論理的真実)、必然的判断は、悟性が悟性法則によって判断を規定するもの(論理的必然性)である。

 

こうして悟性概念のすべてが表された。このカテゴリー表の妥当性については、納得できるような納得できないような感じである。しかしカントの論理学、もっと言えばカントの批判はすべてこのカテゴリー表に基づいて行われるから、カントの批判の理解においては十二分に理解しておかなければならない。

 このあたりで良い時間になったので今回はここまでで終了。あとはしゃべって帰った。その雑談の中でもいろいろと面白い話があった。分析美学やフーコーの美学など、最近は美学がアツいらしい。わたしも美を理解してみたい。