無性別主義を夢想する

性別神話と言うべきものについて

10代~20代で恋愛経験を積んで、30歳くらいで結婚して子どもをもうける。そうしたら女性は家人として、男性は稼ぎ手として、家庭を支える。こうすることで、個人が幸せであるばかりか、人間の再生産を行い、国家民族を維持することができる……。以上のような、とくに近代以降ヨーロッパからアメリカ、日本などで「流行」した、家族形態を基本とした社会は、20世紀後半からの少子高齢化フェミニズム運動、性的マイノリティの台頭による性別概念の変容などなどに伴って、徐々にその歪みが発見されてきた。

わたしは、今日の日本や欧米における問題の大きな要因の1つとして、「性別神話」とでも言うべきものが長く影を落としていることがあるように思う。すなわち、男・女という区別、さらにセックス、恋愛、結婚といったもろもろの男女関係に関する「神話」が、さまざまなかたちで語られ、その神話を強化してきたのだ。さまざまなかたちというのは、まずは中世や近世におけるキリスト教(これもいろいろあるが)と結びついた政治権力による構図の規定にはじまり、近代から戦後において加速した小売やサービスに携わる企業の販売戦略によるイメージの固定化、そしてそれと並行して根付いてきた社会通念などが挙げられるだろう。

現代思想の一大潮流としてある、フェミニズム運動は、女性参政権獲得から考えれば(ここを出発点として良いのかはあやしい)100年近くに及ぶ。この思想は既存の男女区別に挑戦したものであるが、いまだ男女区別を超越する段階には至っていない(そもそもそれは目的ではないだろう)。しかし、重要なのは、フェミニズムに加えて、LGBTQの権利獲得運動も盛り上がりを見せているというところである。わたしは、今日のようなアイデンティティの問い直しの風潮を鑑みて、そろそろ、次の段階に進む可能性が開けてきたのではないかと思う。

わたしは、以上のような神話を解消し、無性別主義(これは完全に造語)とでも言うべき姿勢を構想してみたいと思う。近現代を乗り越える最終局面への1つの足掛かりとして、試案(というより夢想)してみたい。

無性別主義へ

 無性別主義とは、基本的には男女の区別、とくにその身体上の区別をできるだけ極限にまで抑え、男女の区別から生じていたさまざまな軋みを解消しようとする姿勢である。括弧に入れられ得るものはすべて括弧に入れてしまおうということである。ここにおいてわたしは、何よりも1つのことが重要だと考える。すなわち、

 

セックスから特別な意味を引きはがすこと。

 

これである。もっとも、これは出発点ではない。なぜなら、解消するべき対象であるところの性別神話と、相互に結びついているからである。どちらが卵なのか、決めようがないのである。だから、別の方向から性別というものを問い直させるような契機があって、その問い直しと並行して行わなければならないのである。これについては後述される。

セックスは、非常に大きく男女の身体性に依って成り立つコミュニケーションである。そしてコミュニケーションの段階としては、最後に来るものである(本当か?)。一般的に、恋人であるかどうかは、セックスが許されるかどうかで決まると言ってよい(本当に本当か?)。また、最近は必ずしもそうではないが、子どもをもうける際にはセックスをしなければならない。このような、コミュニケーションとしての特異性が、「性別神話」を維持し、あるいは強化する大きな要因であると思われる。したがって、セックスから特別な意味を引きはがすことは非常に重要なことである。しかし、無論これはかなり困難な業であることは疑いえない。

セックスを格下げする

具体的な策として、何が考えられるか。わたしはセックスを、単なるコミュニケーションに「引き下げる」ことで、1つの方向が開けるのではないかと考える。セックスという行為は、大きく2つの要素に還元される。2人で性欲を解消するということ、かつ相手との特別親密な関係を意識したコミュニケーションをとるということ、この2つである*1。こう考えたとき、セックスは形式としては、たとえば2人で食事をすることにかなり近いのではないだろうか? すなわち、2人で(とくに同じものを食べた場合は)食欲を満たすということ、そしてもちろん食事中にさまざまなかたちでコミュニケーションをとるということ。そう考えると、セックスから愛を確かめ合うとかいう意味をなくしてしまって、食事をするとか、一緒に遊ぶとか、そういうレベルのコミュニケーションに認識を変換するということは、なしうることではないだろうか?

格下げするための2つの契機

しかし上のようなことが実現されるには、セックスが「男女間で」「恋人の間で」行われるものであるという強固な社会通念を打破しなければならない。ここで重要なのが、LGBTQ運動が盛り上がっている、そしてSNSの普及による簡単な「出会い」が一般化しているという、この状況があることである。これが上で述べた別の方向からの契機である。

言うまでもなく、LGBTQはセックスや恋愛が男女間で行われるものであるという「常識」を破壊する運動である。これは政治的にはおそらく結婚の権利というかたちであらわれているだろう。レズやゲイならばまだよいとして、Xジェンダーの人々などはかなりアイデンティティで悩んでいるという人も少なくないだろうと思われる。このような人々が存在するということはすなわち、男女の区別を「もうける」ことに疑問をさしはさむ余地があることの強力な証拠になる。ジュディス=バトラーが言うように、ジェンダーのみならずセックスも文化的に形成されているものなのであると考えることもできるだろう。この観点からセックスを捉えたとき、それは何も男女で行われるものではない。せいぜい、相手が人間であり、そしてしたいと思う相手であれば良いのである。

さらに現在、SNSのインフラ化によって、簡単に「出会う」ことが可能となった。これに伴って、セックスのエンターテインメント化とでも言うべき状況が生じている。これから必死に声を上げなくとも、すでに一部の人々の間では(表面化しただけで昔からそうだったのかもしれないが、しかし表面化することが重要であるとも言える)セックスは恋人とする特別なものではなく、条件がそろえば誰とでも行い得るものになっている。したいのだから、すればいい。この態度を推し進めていけば、セックスが恋人の間で行われる特別なものであるという通念を破壊することができるだろう。食事と同じ、一緒に遊ぶのと同じものと考えればいいのである。

 

 

 

こうしてセックスから特別な意味が失われれば、男女関係の、とくに性欲にまつわる部分の問題がかなり解決(解決されなくとも解消)されることになるだろうと思われる。無性別主義から導かれる社会の変容については、後の記事に譲りたいと思う。

*1:ここでは、生殖という目的があることは意図的に無視する。話が混み入ってしまう。

誠実であることは不可能だ

人に対して誠実であることは難しい。誰それは誠実だというとき、誠実という言葉は何を表しているだろうか。この観点から考えることで、誠実であることの困難さ、もっと踏み込んで不可能さを考察してみたいと思う。

たとえば、うそをつく人は誠実とは言えないだろう。なぜうそをつくと誠実ではないのだろうか。うそをつくとき、うそをつく人は何を考えているだろうか。たとえば、うそをついて相手が困惑する様子を見たいときには、相手を或る種の玩具としてとらえているといっていいだろう。相手の人格をないがしろにしておいて、とりあえずの反応で自分が満足すればいいというわけだ。また、相手を出し抜きたいときには、より露骨に相手の人格を無下にしていると言っていいだろう。相手を、うそをつくという仕方で操作しているのだ。

つまり、うそをつくことが誠実でないのは、相手の人格を尊重せず、自分の欲望を満たし目的を果たすための手段として相手のことを利用しているからだと言えるだろう。

たとえば、暴力を振るうのは誠実ではないというのは合意を得られるだろう。これもうそをつく場合と同様にして、暴力を振るうことが目的であるにしろ、相手に言うことを聞かせるなどの手段として暴力を振るうにしろ、相手を自分の欲求を満たすための手段として利用していることが問題なのだ。

以上のことから考えると、誠実であることには、相手の人格を尊重し、相手を目的として扱うということが決定的に重要であることがわかってくる。この際留意が必要なのは、誠実であることは態度の問題であるということだ。たとえば上の例に沿って、暴力を振るうことで、振るわれた相手がより強い痛みに耐えることができるようになったとしよう。このとき、暴力を振るった当人が相手に対して誠実であったとは到底言えないということは、我々の日常の感覚としてある。誠実とは結果の良し悪しではなく、相手を尊重し、常に相手を目的として扱うという、持続的な態度のことなのだ。

さて、基本的な誠実概念の分析は以上のようなものになるだろう。一見、誠実であることは可能であるように思われる。実際問題、人格をないがしろにするという状況はほとんどないのではないか? ところが、誠実であることをこの概念に基づいて追求すると、非常に大きな困難にみまわれることになる。

われわれには、少なくない友達がおり、あるいは恋人がいることだろう。普通の感覚として、われわれは彼ら、彼女らのことを大切に扱っていることだろう。しかしここで1つの問題が提起される。

そもそも、なぜわれわれは友達をつくり、あるいは恋人をつくろうとするのだろうか?

ある人は、友達や恋人はつくるものではない、自然にできるものだと言うだろう。ことの真偽はさておき、自然にできることが本当だったとして、それでも問いは同じである。

われわれは友達や恋人という関係を、どのようなものとしてとらえているだろうか?

最も皮相な関係で言えば、友達がいないことによって、大学の講義を休んだ時にノートを貸してくれる人がいない、勉強していてわからないところを聞くことができないといった不都合が生じるから、友達を維持するという場合がある。もっと深い関係を考えると、悩みごとなどを相談することができない、体験を共有する人がいなくてむなしい、さびしいので友達がいた方が良いという場合がある。

恋人になるともっとプライベートな領域になって、そもそもいるという事実に価値がある(これは友達もそう言えるが)、特定の体験だけでなく、日常をも共有できる相手がいる、愛情を相互に与えあうことができるから恋人はもちろんいた方が良いということになるだろう。

ここで、誠実であろうとする態度をもって、問わなければならない。以上挙げた中で、相手を手段として扱っていないという例が1つでもあっただろうか? それとも、上のような例は恣意的な挙げ方で、ほかに相手の人格そのものを目的として扱うという可能性があるだろうか?

このように言う人もいるだろう。とくに恋人に限って言えば、愛情を相互に与えあうことで相手も幸福になっているはずだ。にもかかわらず、恋人を手段として扱っていると言えるのか。

ここで誠実であるためには、相手との関係において自分の利益を目的としてはいけない。常に相手の人格を尊重しなければならない。しかし、恋人にするとき、我々はその人を「選択」する。この「選択」を誠実に行うとき、それは相手がこちらと恋人になりたいという要望に応えるかたちでしかあり得ないということがわかる。このことから導かれる結論は、誰にも要望されない限り、恋人をつくるという選択は相手を手段として扱うということになるし、あるいは複数人から要望されたときには、できるだけそれに応えなければならないということだ。なんとも受け入れがたい結論である。

友達についても同様だ。我々は、友達を「選択」している。誠実に友達をつくるならば、相手の要望に応えるというかたちでしかあり得ないが、そのような場合はほとんどないからである。それどころか、相手の要望に応えるその時にすら、われわれは自己利益を考える。いま向かいにいるこの相手と、どれほどの距離感が自分にとって最も良いのかと考えざるを得ないのである。相手のことを思って友達になるというのは、なんと傲慢にすら聞こえるのである。

このように考えると、われわれが誠実に友達や恋人関係を形成、維持することはほぼ不可能と言って良い。そこに「選択」という契機がある以上、すべては不誠実な関係へと陥ってしまうのである。このインモラルな関係が成り立っているのは、いうなればお互いに利用し合うという暗黙の了解があるからである。

しかし、われわれはこのインモラルな関係をやむを得ないものとしてストップしてしまう必要はない。むしろ、ここから誠実であることへと進んでいく義務がある。一度「選択」してしまい、その人と友達あるいは恋人になれば、1対1の関係が形成される余地がある。そうなれば、われわれはその関係のうちで誠実であることができるのである。ただ、この誠実さは友達と恋人でまた違った様相を見せる。

恋人は1人しかいない。2人以上作った瞬間、誠実さはあっという間に瓦解する。ゆえに、恋人との関係で誠実であろうとすることは相対的に困難なことではない。

しかし、友達は何人もいる状態が許容される。むしろ、多ければ多いほどその人の人格がすばらしいというような評価もされる。ところが、ここで数々の友達の中に待遇の差をつけることを考えよう。このとき、我々は同じ友達の枠の中で「選択」を行っている。すると、我々は友人を手段として見ることになり、誠実であることができなくなるのである。わかりやすいのは、ノートを貸してもらうためだけに友達面をする例だ。つまり友達に対して誠実であるには、すべての友達を等しく尊敬せねばならないのだ。これは非常に困難なことだろう。真に誠実であろうとすれば、そう多くは友達を持つことはできないはずだ。

以上が誠実であることの困難さ、あるいは不可能性をわたしなりに分析してみた結果である。まったく誠実であることは不可能だが、わたしはそれでも誠実であろうとすることに邁進したい。

純理部会日記2017年7月28日(金)

カントの計算概念、およびカテゴリーに関してのスコラ哲学者たちへの批判について

参加者 O、K、わたし

 

pp.149~161

 

第三節 純粋悟性概念即ちカテゴリーについて

 

この節は総合の説明に始まり、構想力の導入、カテゴリー表の導入、アリストテレスのカテゴリー論への批判など、重要な部分が多いところであるが、我々の議論が紛糾したのは2か所だった。

 

まず、p.151で行われる純粋総合の部分。以下、少し長く引用する。

 

ところで、一般的に表象された純粋総合は、純粋悟性概念を与える。しかし私はこの純粋総合を、ア・プリオリな総合的統一を基礎とする総合と解する。すると我々の行う計算は(とくにこれは比較的大きな数だといっそう顕著である)概念による総合である。計算は統一の共通の基礎(例えば十進法)によって行われるからである。それだから多様なものの総合における統一は、総合という概念によって必然的になるのである。

 

計算を例にとって、順番に分析していこう。計算はア・プリオリな総合的統一を基礎とする。数というア・プリオリな概念を十進法という共通の基礎を用いて行う……とあるが、ここで立ち止まってよく考える必要がある。計算はア・プリオリな総合的統一を「基礎」においている。一方で、十進法も統一の共通の「基礎」である。ここで使われている言葉が同じであるために、するりと読んでしまうところであるが、気をつけて読むと、十進法は「統一の基礎」なのである。つまり、まず十進法が統一を基礎づけ、そして基礎づけられた統一がさらに計算を基礎づけるという、いわば2段階の基礎づけとなっているのである。では、計算と十進法の間にあるものは何であろうか?

ここでわたしが考えたのは、「整数環」である。すなわち、まず十進法が数と数の関係を基礎づける(ここは無論、何進法でも良い)。そして、これに合わせるかたちで整数環が構成される。これによって、純粋総合すなわち計算が可能となるのである。

カントの時代に環論そのものでなくとも、環論的な発想があったかどうかわからないし、そもそもこの部分の読みとりが妥当であるのかどうかも不明であるが、とりあえずわれわれの合意はこのあたりで形成された。

 

 

続いて議論が紛糾したポイントは、pp.159~161にわたる、スコラ哲学者たちへの批判である。

スコラ哲学の命題『およそ実在するところのものは一者、真および善である(quodlibet ens est unum, verum, bonum)』は、カントの挙げたほかにもカテゴリーがあるという主張をするものである。一者(単一性)、真(真理性)および善(完全性)はそれぞれ単一性、数多性、総体性を認識の根底においているにも関わらず、これらの概念をカテゴリーであると主張する。

スコラ哲学者の議論は以下のようになる。第一に、対象の認識には必ず概念の統一(単一性)がある。カントはこれを質的単一性と呼ぶ。第二に、帰結には真理性がある。つまり、一つの与えられた概念から導かれた帰結がより多く真であるほど、その概念の客観的実在性が大きくなる。カントはこれを質的数多性と呼ぶ。最後に、この数多性がその概念以外には当てはまらないという状態がある。カントはこれを質的完全性と呼ぶ。

以上のようにして、スコラ哲学者たちは分量のカテゴリーによって、本来異質的なものを無理やりに結び付けているのだ、とカントは言う。

尻切れトンボになってしまうが、正直この部分はよく理解できなかった。もう一度熟考しなくてはならないと猛省する次第である。

ペダンティックな『キミにきめた!』(ボロボロにネタバレあり)

いくつもの文脈が切り貼りされている

今夏のポケモン映画はサトシの出発を改めて描くということで何年かぶりに見にいきました。

今の子どもたちが見るものなのでどれほどわたしのような世代に楽しめるのかわかりませんでしたが、思った以上にアニメ(とくに映画)の文脈を背後に忍ばせていました。知っているポケモン映画の数が多ければ多いほど、つまり長くポケモンと育ってきているほど、楽しめる映画でした。

ざっと順番に挙げてみようと思います。

・最初のポケモンリーグ勝戦のナレーションはうえだゆうじ

うえだゆうじさんと言えばタケシです。タケシがこの映画では出てこないかわりに、実況を担当。のっけからにやりとしてしまう演出です。

・そこからしばらくはポケットモンスター無印のカスミと出会うあたりまでを踏襲。フシギダネをもらっていったのはグリーン。あとの二人は?

サトシは寝坊します。そして4人目となり、ピカチュウと出会う。その後ポッポを捕まえようとし、オニスズメに襲われるまでは無印を見たことがある人なら誰でも見慣れた流れ。ちなみにここでカスミと出会いますが、映画ではなし。ここでピカチュウはサトシを受け入れます。

ところで、フシギダネを貰っていったのはいわゆるグリーンです。ヒトカゲゼニガメを貰っていった他の2人にも何かオマージュもとのデザインがあるのでしょうか? わたしにはわかりませんでした。

・どうやらいまだに回収されていないホウオウの伏線を映画で回収することにした?

オニスズメとの戦闘を終えたあと、サトシはホウオウから虹色のはねを貰います。これも有名なシーンです。あとからわかりますが、この映画のテーマは「もう一度ホウオウに出会う」です。湯山監督、アニメでも回収されていないこのホウオウの伏線を映画で回収することにしたということでしょうか?

とは言っても、この映画はもう1つの世界線みたいなもので、アニメとの連関はないでしょうが。

・OPは最初のやつ。一部の映像はリメイク。

ここでOPが始まります。ぼくは知らなかったのでちょっと感動したのですが、OPはなんと『めざせポケモンマスター』。映像はキャタピーを捕まえるシーンがあり、そして一部はアニメ版のリメイクです。

キャタピーとの出会い(のちにバタフリーとの別れもあり)。

これは上に書きました。ちゃんと(?)バタフリーとの別れもあります。ここも無印オマージュ。

・ソウジ、マコトと出会う。エンテイの出現。

サトシはエリカを倒してバッジを3つ手に入れます。エリカって、4つ目だったような。いったいどういう順番なのか。アニメもそんな感じでしたかね。

ここで、今回のメイン2人、ソウジとマコトに出会います。彼らはそれぞれ、ルカリオポッチャマ持ち。いずれも『ミュウと波導の勇者』の主人公、そしてヒカリの相棒と、印象深いポケモンです。この2人はデザインはかなり最近の世代のトレーナーに近いことが特徴的です。出身の地方が新しい世代の方なので、それを反映しているのかもしれませんが、なんにせよサトシとの対照性が際立ちます。

そしてここでエンテイが登場します。エンテイと言えば、『結晶塔の帝王』。映画のメインとして出演したこともあり、のちに出てくるスイクンライコウよりも印象的にふるまいます。いわゆる3犬ですが、まずはホウオウとの関連、そして3匹とも映画にも出演ということでこの映画でのオファーとなったのでしょう。『幻影の覇者』でもゾロアークが化けますね。

ロケット団も出てくる。

サトシが2人と出会うポケモンセンターにいつもの3人組が出てきます。やはりこの3人は外せないというところです。もっとも、この3人は今回サトシとは絡みません。

イワークに追いかけられるシーン。

サトシはマコトとバトルをします。そこで誤ってイワークを攻撃してしまい、ひと悶着。イワークは出られないタケシの代わりとばかりに暴れまわります。このイワークに追いかけられるというシーンはアニメや映画にオマージュ元があったのでしょうか?

また、ここではR団が吹き飛ばされます。この映画1回目の「やな感じ

」です。

ヒトカゲとの出会い。捨てたトレーナー、クロス。シンジ的なキャラクター。

サトシとマコトは捨てられたヒトカゲと出会います。そのトレーナーはポケモンを捨てるクロス。このポケモンを捨てるという態度はシンジを彷彿とさせます。アニメのヒトカゲも捨てられたのを拾ったんでしたっけ?

岩の中でソウジの発言「自然の驚異には伝説のポケモンもおなじ」。伝説のポケモンってどういう立ち位置?

2人は洞窟でソウジと再会。そこにエンテイが小ポケモンたちと一緒に雨宿りにやってきます。本筋とは関係ないのですが、ここでソウジの気になるセリフ。わたしの認識として、伝説のポケモンは自然現象みたいなものだと思っていました。でもソウジのセリフからすると、伝説のポケモンにはさほど力はない様子。しかし、多くの人々に語られ、1体しか存在しないというのにそこら辺にいるポケモンと大差ないとは思えません。伝説のポケモンというのは、湯山監督の中ではどういう立ち位置なのか……。

リザード、クロスに一度敗退。サトシ、ふさぎ込む。勝ちにこだわる。夢の中でポケモンの存在しない世界へ。ピカチュウを思い出すことで夢から覚める。→ポケモンから離れていった人たちに重ねる?

次に訪れた街でサトシはクロスと戦闘します。ここでわかるクロスの手持ちは、ガオガエンルガルガンというメンツ。どちらも第7世代というのが特徴的です。もちろん今の子どもたちは世代が新しい方が親しみがあるでしょうから、第7世代のポケモンが出てくるのはわかりますが、やはりこの映画でサトシの前に立ちふさがるという構図にはそれ以上の意味を感じます。

この戦闘でサトシはクロスにトレーナー失格の烙印を押され、自分のトレーナー像とクロスとのずれに憤りを覚え、ふさぎ込んでしまいます。その後は「ピカチュウなら勝てたんだ」「最初に貰ったポケモンフシギダネゼニガメだったらなあ」などとのたまい、孤立。ここでサトシはポケモンが存在しない世界の夢を見ます。世界は灰色。サトシが部屋に掲げているのは最初の3匹ではなく、3色の車。遅刻したのは普通の学校。サトシはピカチュウをまったく忘れてしまったかのようです。そのような世界で、唯一色を持つピカチュウの影を追いかけるうちに、徐々に記憶を取り戻します。「こうやって一緒に走ったよな」というセリフが印象的です。

こうしてサトシはピカチュウとの絆を取り戻すのですが、安直ながらこの構図は今やポケモンから遠ざかってしまった人々に重ねることもできるでしょう。実際わたしも映画を見ている途中ではタマムシシティの名前が思い出せませんでした。あな恐ろしや。

・ソウジ、レントラーの死。「ポケモンと仲良くなるのがこわかった」。

サトシは2人との絆も取り戻してキャンプファイヤーを3人で囲みます。そこでソウジはポケモンとの絆について語りはじめます。吹雪の中で遭難したソウジは、親代わりであったレントラーに温めてもらいますが、夜があげるとレントラーは死んでしまっていました。ソウジはその後ルカリオと出会うまで、「ポケモンと仲良くなるのがこわくなった」と言います。このトラウマは『裂空の訪問者』に出てきたトオイに重なるところがあります。彼は、ポケモンに対する恐怖からのトラウマではありましたが。

スイクンとの出会い。

その夜、マコトはスイクンと出会います。スイクンは『時を超えた遭遇』にややサブ的なポジションとして出演します。

・マコト、母親との関係。「すごいトレーナーで厳しい」。

夜が明けてから、マコトはスイクンと出会ったことを2人に話します。そこで母との関係についても語ります。彼女の母親は腕の立つトレーナーで、それゆえに家庭は息苦しかったから飛び出してきたのだといいます。この母娘関係は何かモチーフ元があるのでしょうか?センリとマサトとか?

オコリザルの襲撃。ロケット団の撤退その2。ここでバタフリーに進化。

時系列的にここがオコリザルだったか記憶が怪しいのですが、3人はひょんなことからオコリザルの群れを刺激してしまい、攻撃されます。その攻撃方法は、なぜか胴上げ。サトシはトランセルオコリザルたちを抑えます。このとき、トランセルバタフリーに進化。

後からやってきたR団はオコリザルたちにつかまり、胴上げで吹き飛ばされます。2回目の「やな感じ」です。

バタフリーと別れたのち、ボンジイと出会う。言われて見れば帽子が確かにレッド。

ここから山に入ります。道中、サトシたちは子作りのために南下するバタフリーの群れに遭遇します。この中の1匹の雌とサトシのバタフリーは求愛に成功しますが、サトシとしてはバタフリーと別れたくありません。しかし、涙を飲んでお別れを言います。

それからこのあたりでライコウと出会います。ライコウは映画には出てきませんが、特番に出演しました。

その後、ホウオウと出会いを求めて20年のボンジイなる人物と出会います。ネットでちらりと見てしまいましたが、ボンジイの帽子はレッドのものと酷似しているということです。こういうところもにくいですね。

また、ここではR団が3回目の「やな感じ」です。

サトシたちは山頂まであと少しとなって走り出します。ここでボンジイは「光陰矢の如し。少年少女たち、まずは生きよ」と言います(しかもこちらを向いて)。ここでこういうセリフが出てきた意図は物語の中からは汲み取れませんが、湯山監督からの子どもたちへのメッセージでしょうか?どちらかというと、ちょうどわたしくらいの人たちに響きそうです。

・クロスとのバトル。途中でリザードンに進化。ちきゅうなげ。

山頂でクロスはにじいろのはねを奪おうとして待ち伏せしています。再びリザードガオガエンが相まみえますが、リザードリザードンに進化します。このバトルは作画的にも結構見どころ。そしてサトシのリザードンと言えばやはり「ちきゅうなげ」ですね。これでガオガエンはKOされます。

マーシャドー戦。ポケモンを操る。

サトシはバトルには勝ったものの、クロスににじいろのはねを奪われます。ずっとサトシについてきたマーシャドーは、黒くなったにじいろのはねに反応し、にじいろのはねに近づく人間を排除しようとして回りにいるポケモンたちを操ります。ポケモンたちを操るというと『ミュウツーの逆襲』が思い出されます。あれはコピーでしたが。

・サトシの臨死。ピカチュウとの友情で復活。人語を話すピカチュウ

マーシャドーにサトシは徐々に追い詰められ、操られたポケモンたちの攻撃によって臨死状態に陥ります。しかし、ピカチュウとの絆によって復活します。ここでも、一時サトシは灰色の世界に入ってしまいますが、今度はピカチュウのことは忘れていません。「こうして一緒に走ったよな」と灰色の世界を走るサトシのもとに、ピカチュウは飛び込んでいきます。サトシは2度、ピカチュウという存在によって灰色の世界から抜け出すことができたのです。サトシの臨死、ピカチュウとの絆という描写は、やはり『ミュウツーの逆襲』ですね。

この臨死の直前、ピカチュウはなんと人間の言葉を話します。「ずっと一緒にいたいから」というのが、ボールに入る前のピカチュウのセリフです。あるいは、サトシがそのようにピカチュウの発声を感じ取ったのか? いずれにせよ、ピカチュウの発声をそのように人の言葉として描いたのは今作が初めてなのではないでしょうか。

・ホウオウの出現。バトル。ED。

サトシが臨死に陥ったときのピカチュウの電撃により、マーシャドーたちの洗脳は溶けて山は元に戻ります。そうしてサトシがにじいろのはねを掲げると、ホウオウが出現。バトル開始!……というところでEDです。

EDでは『ディアルガVSパルキアVSダークライ』に出てきた都市や、『幻影の覇者』に出てきた都市も確認できました。誤りかもしれないし、見落としもあるかもしれません。

また、タケシにはじまってセレナに至るまで、歴代の旅仲間のお目見えです。号泣ものですね(泣いてないけど)。印象的なのは、男性陣はカメラを向けられたことに気付いて驚きの表情を見せるのですが、女性陣は分かっていたかのようににこりと笑って見せることです。セレナなどは帽子を拾ってもらっています。いったい、だれがカメラマンなのでしょうか……。

 狙いは明らかにわたしたち

湯山監督としては恒例の夏映画ということもあったのでしょうが、やっぱりポケモンと一緒に育ってきた我々の世代向けのメッセージや演出をふんだんに盛り込んでいることは間違いないでしょう。むしろ、灰色の世界周辺の描写や、ボンジイの唐突な「生きよ」というセリフは、ポケモンから離れて間もない、あるいはこれから離れていかねばならない人々への、エールとも言えるでしょう。

 

「あのとき、こうして一緒に走ったよな」

「ずっと一緒にいたいから」

 

ポケモンがそういう存在になったらいいなあという感得の願いを感じ取れるかのようです。

ちょっと文章を書いてみる

純理部会日記 2017年7月20日

某所で『純粋理性批判』の読書会をしているので日記をつけることにしました。テキストは篠田英雄訳、岩波文庫

本当は先験的論理学の最初からやろうと思ったのですが、めんどうで引き延ばしているうちに次の回がやってきてしまった。ということで中途半端なところから失礼します。

 

参加者 O、K、わたし

pp.133~149

 

Ⅳ 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区別することについて

 ここは基本的にⅢを受けて、「純粋悟性の単なる形式的原理を実質的に使用」することの危険を再度説明している。「純粋悟性だけをもって対象を総合的に判断し主張しまた決定するという僭越を敢てすると、この分析論の誤謬が生じるのである。」つまり、神の存在を悟性を正確に用いて論証したところで、実質的に対象の存在が認識されなければまったく意味がないということだ。ちなみに用語がわかりにくいが、分析論も弁証論も、なにかの「巧術」ではなく、批判のことである。

 

先験的論理学 

第一部 先験的分析論

 先験的分析論において要件が4つ。

 (1)ここで述べられる概念はすべて純粋概念である。

 (2)純粋概念と言うのは、感性や直観に属するのではなく、思惟と悟性とに属するもののことである。

 (3)これらの概念はすべて基本的概念である。派生していたり、合成されたものではない。

 (4)これらの概念の表は完全であり、純粋悟性のすべてをもらさず包括している。

 さて、これらを完全なかたちでまとめるにはどうすればいいのか? それは、a prioriな悟性認識の全体という理念と、その理念に基づいた分類とによって行われる必要がある。さらに、これらの概念を互いに関連づけて1つの体系にしなければならない。ここには、カントの有機体への意識がある。

 先験的分析論は純粋悟性の概念(カテゴリー)と、純粋悟性の原則とについて論じる。

 

第一部第一篇 概念(カテゴリー)の分析論

第一章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて

 先験的哲学は、純粋悟性の概念を1個の原理に従って残らず発見するし、またその「責務がある」。

 

第一部第一篇第一章第一節 悟性の論理的使用一般について

 悟性の認識は直観的(intuitiv)ではなくて、論証的(diskursiv)である。直観は感性に基づくが、概念は機能(Funktion)に基づく。ここで言う機能とは、種々の表象を共通な1つの表象のもとに集めて、これらの表象に秩序を与える、というような作用の統一のこと。

 悟性は高次の表象を思惟し、それによって種々の現象を間接的に表象する。ここでは、『すべての物体は可分的である』という例がある。可分的という概念により、可分的であるような様々な現象を間接的に表象しているのである。ここから、悟性は判断の能力であるということが導かれる。しかもそれは可能的なのである。例えば、『すべての金属はいずれも物体である』という判断において、悟性は我々がまだ見ぬ金属についても、『物体である』という概念を用いて間接的に表象している(=述語になっている)。このような統一(述語によって多様な現象を高次の表象にまとめること)のパターンをすべて挙げてしまえば、それが悟性の認識の全体である。

 

第二節 判断における悟性の論理的機能について

 ここであの有名な図表が登場。カント曰く、これで表示は適切である。つまり完全であるということだ(ホントか?)。

1 分量―全称的判断(すべてのAはBである)

             ―特称的判断(若干のAはBである)

             ―単称的判断(このAはBである) 

2 性質―肯定的判断(AはBである)

     ―否定的判断(AはBでない)

     ―無限的判断(Aは非Bである)

3 関係―定言的判断(AはBである)

     ―仮言的判断(AがBならばCはDである)

     ―選言的判断(AはBであるかさもなければCである)

4 様態―蓋然的判断(AはBであり得る)

     ―実然的判断(AはBである)

     ―必然的判断(AはBでなければならぬ)

次の数字は上述の数字と対応している。

(1)論理学者たちは単称的判断について、その外延が定まっているという理由で全称的判断と同じだと言う。つまり、特称的判断のように、若干のものには当てはまり、若干のものには当てはまらないという場合がないからだというのだ。カントは彼らの主張を受け入れつつも、両者は単一性と無限性との関係をなし、本質的に異なるという。カントの考えとしては、確かにAはBであるという様式は同じなのだが、1では判断の分量に注目しているのだから、やはり分けなければいけないだろうというところだろうか。

(2)ここで我々はかなり悩まされた。カントは、一般論理学が肯定的判断(AはBである)と無限的判断(Aは非Bである)とを同一視することを問題にする。確かにどちらも「~である」という形式は同じだ(ドイツ語ではsein)。しかし、無限的判断は、概念を増やす(ここでは、概念の情報が増えるということ)ものではなく、肯定的規定をなんら与えないというのである。たとえば、『霊魂は不死的である(非―可死的である)』という判断において、我々はまずあらゆる可能的存在者のうち、可死的であるものを取り除く。そうして残った無限に存在する不死的なものの中に、霊魂が入っていると判断する。しかし、このような集合は依然として無限集合である。だから、霊魂の概念が増すことはない。

 

……そうだろうか? 我々の自然な感覚としては、集合が狭まっているという点で、概念が増していると言えるのではないだろうか? それとも、肯定的な規定か否かというプロセスの違いだけに注目せよとカントは言っているのだろうか? しかし、「概念が増えない」という結果の違いを示唆する記述がある。我々はここで紙とペンを取り出してあれこれ考えてみたが、やはり結果が異なるとはどうも思えなかった。ただ、無限的判断の場合、Bと非Bの二項対立で判断しているのに対し、肯定的判断や否定的判断はA,B,C,……とある中から、唯一つB という述語をもって主語を規定しているという違いはある。だが、これにしても結果が異なるとは思えず、我々にとってはかなり理解に苦しむ分類であった。

 ここで、Oくんが西洋哲学の無限的判断の文脈について示唆を与えてくれた。たとえば古代ギリシア哲学ではダイモーンが「これこれはしてはいけない」とささやくが、決して何をすべきかは教えてくれない。また、神の存在についても、「非Bである」というかたちで記述されることが多かったという。なるほど、確かにダイモーンの例はわかりやすい。「これこれをしてはいけない」というささやきは、「これこれをせよ」という啓示に対して、あまりにも貧弱な情報量である。

 でもこれって、否定的判断なのではないか……。

 

(3)判断における思惟の関係は、(a)主語と述語の関係、(b)理由の帰結に対する関係、(c)区分された認識と区分によって生じたすべての選択肢相互との関係、に限られる。(b)については、たとえば『完全な正義があるならば、不逞な悪人は処罰される』という判断において、『完全な正義がある』と『不逞な悪人は処罰される』のおのおのの真偽は問題ではない。これは帰結の関係だけを示す。(c)については、我々が選言的判断を行うとき、たとえば『AはBであるかCであるかDであるかのいずれかである』というとき、我々の世界認識はこの3つの述語で完全に描写されるということである。隠されていたEが出てくるなどということはない。

(4)判断の様態は、蓋然的、実然的、必然的判断に分類される。これは判断の内容には関係がない特殊な機能である。蓋然的判断は、悟性がその判断を受け入れる程度のもの(論理的可能性)、実然的判断は、悟性が悟性法則に従って判断を結びつけるもの(論理的真実)、必然的判断は、悟性が悟性法則によって判断を規定するもの(論理的必然性)である。

 

こうして悟性概念のすべてが表された。このカテゴリー表の妥当性については、納得できるような納得できないような感じである。しかしカントの論理学、もっと言えばカントの批判はすべてこのカテゴリー表に基づいて行われるから、カントの批判の理解においては十二分に理解しておかなければならない。

 このあたりで良い時間になったので今回はここまでで終了。あとはしゃべって帰った。その雑談の中でもいろいろと面白い話があった。分析美学やフーコーの美学など、最近は美学がアツいらしい。わたしも美を理解してみたい。