純理部会日記2017年7月28日(金)

カントの計算概念、およびカテゴリーに関してのスコラ哲学者たちへの批判について

参加者 O、K、わたし

 

pp.149~161

 

第三節 純粋悟性概念即ちカテゴリーについて

 

この節は総合の説明に始まり、構想力の導入、カテゴリー表の導入、アリストテレスのカテゴリー論への批判など、重要な部分が多いところであるが、我々の議論が紛糾したのは2か所だった。

 

まず、p.151で行われる純粋総合の部分。以下、少し長く引用する。

 

ところで、一般的に表象された純粋総合は、純粋悟性概念を与える。しかし私はこの純粋総合を、ア・プリオリな総合的統一を基礎とする総合と解する。すると我々の行う計算は(とくにこれは比較的大きな数だといっそう顕著である)概念による総合である。計算は統一の共通の基礎(例えば十進法)によって行われるからである。それだから多様なものの総合における統一は、総合という概念によって必然的になるのである。

 

計算を例にとって、順番に分析していこう。計算はア・プリオリな総合的統一を基礎とする。数というア・プリオリな概念を十進法という共通の基礎を用いて行う……とあるが、ここで立ち止まってよく考える必要がある。計算はア・プリオリな総合的統一を「基礎」においている。一方で、十進法も統一の共通の「基礎」である。ここで使われている言葉が同じであるために、するりと読んでしまうところであるが、気をつけて読むと、十進法は「統一の基礎」なのである。つまり、まず十進法が統一を基礎づけ、そして基礎づけられた統一がさらに計算を基礎づけるという、いわば2段階の基礎づけとなっているのである。では、計算と十進法の間にあるものは何であろうか?

ここでわたしが考えたのは、「整数環」である。すなわち、まず十進法が数と数の関係を基礎づける(ここは無論、何進法でも良い)。そして、これに合わせるかたちで整数環が構成される。これによって、純粋総合すなわち計算が可能となるのである。

カントの時代に環論そのものでなくとも、環論的な発想があったかどうかわからないし、そもそもこの部分の読みとりが妥当であるのかどうかも不明であるが、とりあえずわれわれの合意はこのあたりで形成された。

 

 

続いて議論が紛糾したポイントは、pp.159~161にわたる、スコラ哲学者たちへの批判である。

スコラ哲学の命題『およそ実在するところのものは一者、真および善である(quodlibet ens est unum, verum, bonum)』は、カントの挙げたほかにもカテゴリーがあるという主張をするものである。一者(単一性)、真(真理性)および善(完全性)はそれぞれ単一性、数多性、総体性を認識の根底においているにも関わらず、これらの概念をカテゴリーであると主張する。

スコラ哲学者の議論は以下のようになる。第一に、対象の認識には必ず概念の統一(単一性)がある。カントはこれを質的単一性と呼ぶ。第二に、帰結には真理性がある。つまり、一つの与えられた概念から導かれた帰結がより多く真であるほど、その概念の客観的実在性が大きくなる。カントはこれを質的数多性と呼ぶ。最後に、この数多性がその概念以外には当てはまらないという状態がある。カントはこれを質的完全性と呼ぶ。

以上のようにして、スコラ哲学者たちは分量のカテゴリーによって、本来異質的なものを無理やりに結び付けているのだ、とカントは言う。

尻切れトンボになってしまうが、正直この部分はよく理解できなかった。もう一度熟考しなくてはならないと猛省する次第である。

ペダンティックな『キミにきめた!』(ボロボロにネタバレあり)

いくつもの文脈が切り貼りされている

今夏のポケモン映画はサトシの出発を改めて描くということで何年かぶりに見にいきました。

今の子どもたちが見るものなのでどれほどわたしのような世代に楽しめるのかわかりませんでしたが、思った以上にアニメ(とくに映画)の文脈を背後に忍ばせていました。知っているポケモン映画の数が多ければ多いほど、つまり長くポケモンと育ってきているほど、楽しめる映画でした。

ざっと順番に挙げてみようと思います。

・最初のポケモンリーグ勝戦のナレーションはうえだゆうじ

うえだゆうじさんと言えばタケシです。タケシがこの映画では出てこないかわりに、実況を担当。のっけからにやりとしてしまう演出です。

・そこからしばらくはポケットモンスター無印のカスミと出会うあたりまでを踏襲。フシギダネをもらっていったのはグリーン。あとの二人は?

サトシは寝坊します。そして4人目となり、ピカチュウと出会う。その後ポッポを捕まえようとし、オニスズメに襲われるまでは無印を見たことがある人なら誰でも見慣れた流れ。ちなみにここでカスミと出会いますが、映画ではなし。ここでピカチュウはサトシを受け入れます。

ところで、フシギダネを貰っていったのはいわゆるグリーンです。ヒトカゲゼニガメを貰っていった他の2人にも何かオマージュもとのデザインがあるのでしょうか? わたしにはわかりませんでした。

・どうやらいまだに回収されていないホウオウの伏線を映画で回収することにした?

オニスズメとの戦闘を終えたあと、サトシはホウオウから虹色のはねを貰います。これも有名なシーンです。あとからわかりますが、この映画のテーマは「もう一度ホウオウに出会う」です。湯山監督、アニメでも回収されていないこのホウオウの伏線を映画で回収することにしたということでしょうか?

とは言っても、この映画はもう1つの世界線みたいなもので、アニメとの連関はないでしょうが。

・OPは最初のやつ。一部の映像はリメイク。

ここでOPが始まります。ぼくは知らなかったのでちょっと感動したのですが、OPはなんと『めざせポケモンマスター』。映像はキャタピーを捕まえるシーンがあり、そして一部はアニメ版のリメイクです。

キャタピーとの出会い(のちにバタフリーとの別れもあり)。

これは上に書きました。ちゃんと(?)バタフリーとの別れもあります。ここも無印オマージュ。

・ソウジ、マコトと出会う。エンテイの出現。

サトシはエリカを倒してバッジを3つ手に入れます。エリカって、4つ目だったような。いったいどういう順番なのか。アニメもそんな感じでしたかね。

ここで、今回のメイン2人、ソウジとマコトに出会います。彼らはそれぞれ、ルカリオポッチャマ持ち。いずれも『ミュウと波導の勇者』の主人公、そしてヒカリの相棒と、印象深いポケモンです。この2人はデザインはかなり最近の世代のトレーナーに近いことが特徴的です。出身の地方が新しい世代の方なので、それを反映しているのかもしれませんが、なんにせよサトシとの対照性が際立ちます。

そしてここでエンテイが登場します。エンテイと言えば、『結晶塔の帝王』。映画のメインとして出演したこともあり、のちに出てくるスイクンライコウよりも印象的にふるまいます。いわゆる3犬ですが、まずはホウオウとの関連、そして3匹とも映画にも出演ということでこの映画でのオファーとなったのでしょう。『幻影の覇者』でもゾロアークが化けますね。

ロケット団も出てくる。

サトシが2人と出会うポケモンセンターにいつもの3人組が出てきます。やはりこの3人は外せないというところです。もっとも、この3人は今回サトシとは絡みません。

イワークに追いかけられるシーン。

サトシはマコトとバトルをします。そこで誤ってイワークを攻撃してしまい、ひと悶着。イワークは出られないタケシの代わりとばかりに暴れまわります。このイワークに追いかけられるというシーンはアニメや映画にオマージュ元があったのでしょうか?

また、ここではR団が吹き飛ばされます。この映画1回目の「やな感じ

」です。

ヒトカゲとの出会い。捨てたトレーナー、クロス。シンジ的なキャラクター。

サトシとマコトは捨てられたヒトカゲと出会います。そのトレーナーはポケモンを捨てるクロス。このポケモンを捨てるという態度はシンジを彷彿とさせます。アニメのヒトカゲも捨てられたのを拾ったんでしたっけ?

岩の中でソウジの発言「自然の驚異には伝説のポケモンもおなじ」。伝説のポケモンってどういう立ち位置?

2人は洞窟でソウジと再会。そこにエンテイが小ポケモンたちと一緒に雨宿りにやってきます。本筋とは関係ないのですが、ここでソウジの気になるセリフ。わたしの認識として、伝説のポケモンは自然現象みたいなものだと思っていました。でもソウジのセリフからすると、伝説のポケモンにはさほど力はない様子。しかし、多くの人々に語られ、1体しか存在しないというのにそこら辺にいるポケモンと大差ないとは思えません。伝説のポケモンというのは、湯山監督の中ではどういう立ち位置なのか……。

リザード、クロスに一度敗退。サトシ、ふさぎ込む。勝ちにこだわる。夢の中でポケモンの存在しない世界へ。ピカチュウを思い出すことで夢から覚める。→ポケモンから離れていった人たちに重ねる?

次に訪れた街でサトシはクロスと戦闘します。ここでわかるクロスの手持ちは、ガオガエンルガルガンというメンツ。どちらも第7世代というのが特徴的です。もちろん今の子どもたちは世代が新しい方が親しみがあるでしょうから、第7世代のポケモンが出てくるのはわかりますが、やはりこの映画でサトシの前に立ちふさがるという構図にはそれ以上の意味を感じます。

この戦闘でサトシはクロスにトレーナー失格の烙印を押され、自分のトレーナー像とクロスとのずれに憤りを覚え、ふさぎ込んでしまいます。その後は「ピカチュウなら勝てたんだ」「最初に貰ったポケモンフシギダネゼニガメだったらなあ」などとのたまい、孤立。ここでサトシはポケモンが存在しない世界の夢を見ます。世界は灰色。サトシが部屋に掲げているのは最初の3匹ではなく、3色の車。遅刻したのは普通の学校。サトシはピカチュウをまったく忘れてしまったかのようです。そのような世界で、唯一色を持つピカチュウの影を追いかけるうちに、徐々に記憶を取り戻します。「こうやって一緒に走ったよな」というセリフが印象的です。

こうしてサトシはピカチュウとの絆を取り戻すのですが、安直ながらこの構図は今やポケモンから遠ざかってしまった人々に重ねることもできるでしょう。実際わたしも映画を見ている途中ではタマムシシティの名前が思い出せませんでした。あな恐ろしや。

・ソウジ、レントラーの死。「ポケモンと仲良くなるのがこわかった」。

サトシは2人との絆も取り戻してキャンプファイヤーを3人で囲みます。そこでソウジはポケモンとの絆について語りはじめます。吹雪の中で遭難したソウジは、親代わりであったレントラーに温めてもらいますが、夜があげるとレントラーは死んでしまっていました。ソウジはその後ルカリオと出会うまで、「ポケモンと仲良くなるのがこわくなった」と言います。このトラウマは『裂空の訪問者』に出てきたトオイに重なるところがあります。彼は、ポケモンに対する恐怖からのトラウマではありましたが。

スイクンとの出会い。

その夜、マコトはスイクンと出会います。スイクンは『時を超えた遭遇』にややサブ的なポジションとして出演します。

・マコト、母親との関係。「すごいトレーナーで厳しい」。

夜が明けてから、マコトはスイクンと出会ったことを2人に話します。そこで母との関係についても語ります。彼女の母親は腕の立つトレーナーで、それゆえに家庭は息苦しかったから飛び出してきたのだといいます。この母娘関係は何かモチーフ元があるのでしょうか?センリとマサトとか?

オコリザルの襲撃。ロケット団の撤退その2。ここでバタフリーに進化。

時系列的にここがオコリザルだったか記憶が怪しいのですが、3人はひょんなことからオコリザルの群れを刺激してしまい、攻撃されます。その攻撃方法は、なぜか胴上げ。サトシはトランセルオコリザルたちを抑えます。このとき、トランセルバタフリーに進化。

後からやってきたR団はオコリザルたちにつかまり、胴上げで吹き飛ばされます。2回目の「やな感じ」です。

バタフリーと別れたのち、ボンジイと出会う。言われて見れば帽子が確かにレッド。

ここから山に入ります。道中、サトシたちは子作りのために南下するバタフリーの群れに遭遇します。この中の1匹の雌とサトシのバタフリーは求愛に成功しますが、サトシとしてはバタフリーと別れたくありません。しかし、涙を飲んでお別れを言います。

それからこのあたりでライコウと出会います。ライコウは映画には出てきませんが、特番に出演しました。

その後、ホウオウと出会いを求めて20年のボンジイなる人物と出会います。ネットでちらりと見てしまいましたが、ボンジイの帽子はレッドのものと酷似しているということです。こういうところもにくいですね。

また、ここではR団が3回目の「やな感じ」です。

サトシたちは山頂まであと少しとなって走り出します。ここでボンジイは「光陰矢の如し。少年少女たち、まずは生きよ」と言います(しかもこちらを向いて)。ここでこういうセリフが出てきた意図は物語の中からは汲み取れませんが、湯山監督からの子どもたちへのメッセージでしょうか?どちらかというと、ちょうどわたしくらいの人たちに響きそうです。

・クロスとのバトル。途中でリザードンに進化。ちきゅうなげ。

山頂でクロスはにじいろのはねを奪おうとして待ち伏せしています。再びリザードガオガエンが相まみえますが、リザードリザードンに進化します。このバトルは作画的にも結構見どころ。そしてサトシのリザードンと言えばやはり「ちきゅうなげ」ですね。これでガオガエンはKOされます。

マーシャドー戦。ポケモンを操る。

サトシはバトルには勝ったものの、クロスににじいろのはねを奪われます。ずっとサトシについてきたマーシャドーは、黒くなったにじいろのはねに反応し、にじいろのはねに近づく人間を排除しようとして回りにいるポケモンたちを操ります。ポケモンたちを操るというと『ミュウツーの逆襲』が思い出されます。あれはコピーでしたが。

・サトシの臨死。ピカチュウとの友情で復活。人語を話すピカチュウ

マーシャドーにサトシは徐々に追い詰められ、操られたポケモンたちの攻撃によって臨死状態に陥ります。しかし、ピカチュウとの絆によって復活します。ここでも、一時サトシは灰色の世界に入ってしまいますが、今度はピカチュウのことは忘れていません。「こうして一緒に走ったよな」と灰色の世界を走るサトシのもとに、ピカチュウは飛び込んでいきます。サトシは2度、ピカチュウという存在によって灰色の世界から抜け出すことができたのです。サトシの臨死、ピカチュウとの絆という描写は、やはり『ミュウツーの逆襲』ですね。

この臨死の直前、ピカチュウはなんと人間の言葉を話します。「ずっと一緒にいたいから」というのが、ボールに入る前のピカチュウのセリフです。あるいは、サトシがそのようにピカチュウの発声を感じ取ったのか? いずれにせよ、ピカチュウの発声をそのように人の言葉として描いたのは今作が初めてなのではないでしょうか。

・ホウオウの出現。バトル。ED。

サトシが臨死に陥ったときのピカチュウの電撃により、マーシャドーたちの洗脳は溶けて山は元に戻ります。そうしてサトシがにじいろのはねを掲げると、ホウオウが出現。バトル開始!……というところでEDです。

EDでは『ディアルガVSパルキアVSダークライ』に出てきた都市や、『幻影の覇者』に出てきた都市も確認できました。誤りかもしれないし、見落としもあるかもしれません。

また、タケシにはじまってセレナに至るまで、歴代の旅仲間のお目見えです。号泣ものですね(泣いてないけど)。印象的なのは、男性陣はカメラを向けられたことに気付いて驚きの表情を見せるのですが、女性陣は分かっていたかのようににこりと笑って見せることです。セレナなどは帽子を拾ってもらっています。いったい、だれがカメラマンなのでしょうか……。

 狙いは明らかにわたしたち

湯山監督としては恒例の夏映画ということもあったのでしょうが、やっぱりポケモンと一緒に育ってきた我々の世代向けのメッセージや演出をふんだんに盛り込んでいることは間違いないでしょう。むしろ、灰色の世界周辺の描写や、ボンジイの唐突な「生きよ」というセリフは、ポケモンから離れて間もない、あるいはこれから離れていかねばならない人々への、エールとも言えるでしょう。

 

「あのとき、こうして一緒に走ったよな」

「ずっと一緒にいたいから」

 

ポケモンがそういう存在になったらいいなあという感得の願いを感じ取れるかのようです。

ちょっと文章を書いてみる

純理部会日記 2017年7月20日

某所で『純粋理性批判』の読書会をしているので日記をつけることにしました。テキストは篠田英雄訳、岩波文庫

本当は先験的論理学の最初からやろうと思ったのですが、めんどうで引き延ばしているうちに次の回がやってきてしまった。ということで中途半端なところから失礼します。

 

参加者 O、K、わたし

pp.133~149

 

Ⅳ 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区別することについて

 ここは基本的にⅢを受けて、「純粋悟性の単なる形式的原理を実質的に使用」することの危険を再度説明している。「純粋悟性だけをもって対象を総合的に判断し主張しまた決定するという僭越を敢てすると、この分析論の誤謬が生じるのである。」つまり、神の存在を悟性を正確に用いて論証したところで、実質的に対象の存在が認識されなければまったく意味がないということだ。ちなみに用語がわかりにくいが、分析論も弁証論も、なにかの「巧術」ではなく、批判のことである。

 

先験的論理学 

第一部 先験的分析論

 先験的分析論において要件が4つ。

 (1)ここで述べられる概念はすべて純粋概念である。

 (2)純粋概念と言うのは、感性や直観に属するのではなく、思惟と悟性とに属するもののことである。

 (3)これらの概念はすべて基本的概念である。派生していたり、合成されたものではない。

 (4)これらの概念の表は完全であり、純粋悟性のすべてをもらさず包括している。

 さて、これらを完全なかたちでまとめるにはどうすればいいのか? それは、a prioriな悟性認識の全体という理念と、その理念に基づいた分類とによって行われる必要がある。さらに、これらの概念を互いに関連づけて1つの体系にしなければならない。ここには、カントの有機体への意識がある。

 先験的分析論は純粋悟性の概念(カテゴリー)と、純粋悟性の原則とについて論じる。

 

第一部第一篇 概念(カテゴリー)の分析論

第一章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて

 先験的哲学は、純粋悟性の概念を1個の原理に従って残らず発見するし、またその「責務がある」。

 

第一部第一篇第一章第一節 悟性の論理的使用一般について

 悟性の認識は直観的(intuitiv)ではなくて、論証的(diskursiv)である。直観は感性に基づくが、概念は機能(Funktion)に基づく。ここで言う機能とは、種々の表象を共通な1つの表象のもとに集めて、これらの表象に秩序を与える、というような作用の統一のこと。

 悟性は高次の表象を思惟し、それによって種々の現象を間接的に表象する。ここでは、『すべての物体は可分的である』という例がある。可分的という概念により、可分的であるような様々な現象を間接的に表象しているのである。ここから、悟性は判断の能力であるということが導かれる。しかもそれは可能的なのである。例えば、『すべての金属はいずれも物体である』という判断において、悟性は我々がまだ見ぬ金属についても、『物体である』という概念を用いて間接的に表象している(=述語になっている)。このような統一(述語によって多様な現象を高次の表象にまとめること)のパターンをすべて挙げてしまえば、それが悟性の認識の全体である。

 

第二節 判断における悟性の論理的機能について

 ここであの有名な図表が登場。カント曰く、これで表示は適切である。つまり完全であるということだ(ホントか?)。

1 分量―全称的判断(すべてのAはBである)

             ―特称的判断(若干のAはBである)

             ―単称的判断(このAはBである) 

2 性質―肯定的判断(AはBである)

     ―否定的判断(AはBでない)

     ―無限的判断(Aは非Bである)

3 関係―定言的判断(AはBである)

     ―仮言的判断(AがBならばCはDである)

     ―選言的判断(AはBであるかさもなければCである)

4 様態―蓋然的判断(AはBであり得る)

     ―実然的判断(AはBである)

     ―必然的判断(AはBでなければならぬ)

次の数字は上述の数字と対応している。

(1)論理学者たちは単称的判断について、その外延が定まっているという理由で全称的判断と同じだと言う。つまり、特称的判断のように、若干のものには当てはまり、若干のものには当てはまらないという場合がないからだというのだ。カントは彼らの主張を受け入れつつも、両者は単一性と無限性との関係をなし、本質的に異なるという。カントの考えとしては、確かにAはBであるという様式は同じなのだが、1では判断の分量に注目しているのだから、やはり分けなければいけないだろうというところだろうか。

(2)ここで我々はかなり悩まされた。カントは、一般論理学が肯定的判断(AはBである)と無限的判断(Aは非Bである)とを同一視することを問題にする。確かにどちらも「~である」という形式は同じだ(ドイツ語ではsein)。しかし、無限的判断は、概念を増やす(ここでは、概念の情報が増えるということ)ものではなく、肯定的規定をなんら与えないというのである。たとえば、『霊魂は不死的である(非―可死的である)』という判断において、我々はまずあらゆる可能的存在者のうち、可死的であるものを取り除く。そうして残った無限に存在する不死的なものの中に、霊魂が入っていると判断する。しかし、このような集合は依然として無限集合である。だから、霊魂の概念が増すことはない。

 

……そうだろうか? 我々の自然な感覚としては、集合が狭まっているという点で、概念が増していると言えるのではないだろうか? それとも、肯定的な規定か否かというプロセスの違いだけに注目せよとカントは言っているのだろうか? しかし、「概念が増えない」という結果の違いを示唆する記述がある。我々はここで紙とペンを取り出してあれこれ考えてみたが、やはり結果が異なるとはどうも思えなかった。ただ、無限的判断の場合、Bと非Bの二項対立で判断しているのに対し、肯定的判断や否定的判断はA,B,C,……とある中から、唯一つB という述語をもって主語を規定しているという違いはある。だが、これにしても結果が異なるとは思えず、我々にとってはかなり理解に苦しむ分類であった。

 ここで、Oくんが西洋哲学の無限的判断の文脈について示唆を与えてくれた。たとえば古代ギリシア哲学ではダイモーンが「これこれはしてはいけない」とささやくが、決して何をすべきかは教えてくれない。また、神の存在についても、「非Bである」というかたちで記述されることが多かったという。なるほど、確かにダイモーンの例はわかりやすい。「これこれをしてはいけない」というささやきは、「これこれをせよ」という啓示に対して、あまりにも貧弱な情報量である。

 でもこれって、否定的判断なのではないか……。

 

(3)判断における思惟の関係は、(a)主語と述語の関係、(b)理由の帰結に対する関係、(c)区分された認識と区分によって生じたすべての選択肢相互との関係、に限られる。(b)については、たとえば『完全な正義があるならば、不逞な悪人は処罰される』という判断において、『完全な正義がある』と『不逞な悪人は処罰される』のおのおのの真偽は問題ではない。これは帰結の関係だけを示す。(c)については、我々が選言的判断を行うとき、たとえば『AはBであるかCであるかDであるかのいずれかである』というとき、我々の世界認識はこの3つの述語で完全に描写されるということである。隠されていたEが出てくるなどということはない。

(4)判断の様態は、蓋然的、実然的、必然的判断に分類される。これは判断の内容には関係がない特殊な機能である。蓋然的判断は、悟性がその判断を受け入れる程度のもの(論理的可能性)、実然的判断は、悟性が悟性法則に従って判断を結びつけるもの(論理的真実)、必然的判断は、悟性が悟性法則によって判断を規定するもの(論理的必然性)である。

 

こうして悟性概念のすべてが表された。このカテゴリー表の妥当性については、納得できるような納得できないような感じである。しかしカントの論理学、もっと言えばカントの批判はすべてこのカテゴリー表に基づいて行われるから、カントの批判の理解においては十二分に理解しておかなければならない。

 このあたりで良い時間になったので今回はここまでで終了。あとはしゃべって帰った。その雑談の中でもいろいろと面白い話があった。分析美学やフーコーの美学など、最近は美学がアツいらしい。わたしも美を理解してみたい。