言葉に疎外されている!(改)

1.「疎外」を言語に適用する

 マルクス(正確にはフォイエルバッハだと思われる)の生み出した概念に「疎外」というものがある。ごく簡単に言うと、人間の作り出したはずのものがやがて人間の思い通りにいかなくなり、独自の運動をはじめるという現象だ。マルクスはこれを資本主義の分析に使用した。人間はかつて手ずからものをつくって生活の糧を得ていたのだが、資本主義の成長にともなって労働(と、それを作り出す大本である資本)から疎外されてしまうのである。

 わたしは本稿でこの「疎外」の概念を言語の運用にも持ち込みたい。そこで、ドイツの思想家であるヴァルター・ベンヤミンを参照してみよう。

 ベンヤミン言語哲学においては、人間の言葉は「使用」されるものではない(彼はこれを言語のブルジョワ的理解と言う!)。それは神が持っていた完全な言語[1]が不完全なかたちで分け与えられたものであり、それゆえに人間の思い通りにはならない[2]。このようにして言葉が思い通りにゆかないことを「疎外」と呼びたい。彼の言語観をマルクスの資本観とのアナロジーで捉えようという試みだ。彼の思想にはマルクスの哲学とユダヤ神秘思想が深くかかわっているので、そんなに間違ってないと思う。

 そういうわけで、人間は自分の話す言葉から「疎外」されている。物書きの経験のある人ならわかるかもしれないが、しばしば言葉は自分の頭の中にある思考やイメージとは違ったかたちで動いていく。このときにはある種の不自由さを覚えるはずだ。しかしながら、それをフィートバックして「自分はこういうことが言いたかったのだ。」と気づくこともまたしばしばあるだろう。手を動かせ、アイデアは紙に書いた方が良いと言われるゆえんだ。これは言葉に疎外されていることによる創造的な面である。言葉が自分の思い通りにならないがゆえに、まさに自分の外からクリエイティブな発想がうまれてくることもある。

 だが自分の思い通りにならないということはもちろん悪いことでもある。自分の思考やイメージがうまれてくる言葉に引っ張られてしまうのだ。この場合、言葉はわれわれの思考を過度に自由にしていると言えるだろう。ウィトゲンシュタインやカントが避けようとしたのはおそらくこの現象である。だから、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と言ったし、カントは『純粋理性批判』で経験がわれわれの認識を訂正してくれないようなところで理論的認識を試みてはいけないと戒めたのだ[3]

 

2.神についての議論を例として

 以下のような論争を見てみよう。

 

 「神は全能である。しかし、その内実は不明である。いったい、神は矛盾も可能なのか?」

 「神にとっても矛盾は不可能である。神はあくまでも可能性の範囲内で全能なのである。」

 「神は矛盾も可能である。われわれにとって可能性の外にあるようなことでも、神は思考することができる。」

 

 これを見た現代の人々がまず思うことは、「神が全能であるかどうかと言っても、そもそも神がいるかどうかということすらわからないんじゃないの?」という疑問だろう。歴史上、神の存在についての議論もあったには違いないが、中世の多くの人々は神というものについて、「いないと言うのはなんだか直感には反するなあ。なんだかんだいる気がするなあ。」と感じていたはずだ。この「気がする」がおそらくポイントだ。人々の議論の中に当たり前のように「神」という言葉が出現することによって、あたかも神が存在するかのように感じてしまうのである。

 神や魂といった言葉は今や多くの人々にとって指示対象の存在を疑われているものだが、現代においても似たようなかたちで人間の言葉の中に出現するものはわたしの見立て上たくさんある。それらの言葉は非常に多くの場合に我が物顔であらわれるので、その存在を疑う人はずれた人、面倒くさい人という烙印を押されてしまうことになる。

 次のような命題を見てみよう。

 

 (a)東京大学理科三類に現役で合格するには才能が必要だが、文科一類には努力すれば受かる。

 (b)チェンバレンらが宥和政策をとったので、増長したヒトラーポーランドに侵攻した。

 

 どうだろう。自然な感じがするだろうか? 少なくともどちらも、賛否両論ではあれ議論の俎上にのせられそうな主張ではないだろうか。なるほど確かに文科一類に合格することは理科三類より簡単だろうし、宥和政策はヒトラーを増長させたかもしれない。

 しかし、わたしの見るところ(a)にも(b)にも言葉の一人歩きがあるように思われる。例えば(a)については、「才能」と「努力」という言葉がこのように現れることが適切か怪しい。政治哲学者のジョン・ロールズは自らの提出した正義原理において努力できることを生得的なことだと想定している。これに関してはさまざまに議論があるが、少なくとも(a)のような主張は検証することそのものが非常に難しそうだ。それでは、(b)はどうだろう。時間的にも空間的にも連続的に連なる出来事の連鎖から、ある一つの事象を抜き出して「AがBを引き起こしている。」と主張することは可能だろうか(連続的に変化するということがポイント)?[4] 努力も因果も日常では当然に存在するものとされているが、本当は存在しないもの(もしくは言葉の示す範囲が想定より極めて狭いもの)についてまるで存在するかのようにして行われる議論の価値の大きさは、神の万能性をめぐる議論の価値の大きさと同じくらいになってしまうだろう。

 

3.経験に導かれて

 以上のような例は経験がデータを与えてくれる議論とそうでない議論との違いを考えるうえで示唆的だ。つまり、前者(実験物理学とか、データを観察する社会科学とか?)は経験が論証に対して強固に反発してくれるのですぐさま言葉を訂正するチャンスが与えられる。経験がいたるところで手助けをしてくれる(というより主導してくれる)ので、論証の道筋を見失わずに済むのだ。他方、後者(哲学とか、数学とか、あと文学とか?)は強固に反発してくれる経験がほぼない。まさに自由に語ることが(一応は)できる。ただし、議論の正しさを保証してくれるのは推論の正確さしかない。ところが推論が正しくても、前提としている当の言葉(の指示対象)の存在や命題の妥当性が怪しかったら、実体のない基礎の上に建築物を建てていることになる。おまけに、そのような議論がフィードバックして、あたかもその議論が自分にとってなんらか意味や価値を持っているかのように感じられてしまう。しかし実際には何も生み出していない。

 

 人間は言葉から疎外されているがゆえに、言葉の世界に参入するときには極めて慎重にならなければならない。ある言葉の存在を知ることによって世界を認識できていることにはならないのだ。むしろ、存在しない虚像を定立してしまっているのかもしれないのである。言葉の暴走への意識がなければ、言葉は正確な世界像をもたらしてくれるどころではない。自らの目を曇らせる負のフィードバックをうみ、世界は世界でなくなり、自分は自分でなくなってしまう。もしも言葉で世界や他人、あげくには自分を「自由自在に」捉えて、定立された虚像に対して不当に憎み、悲しみ、怒りをぶつけるようなことになれば、なんと不幸なことだろうか。言葉に熟達するということは、言葉を飼いならすことではなく、言葉の自己運動に巻き込まれないように自らを抑えつけるということなのだ。

 

[1] 旧約聖書では神は言語によって世界を創造する。

[2] ベンヤミン『言語一般について また人間の言語について』 河出文庫

[3] 実践の領域についての議論は難しいところなのだが。

[4] 因果関係は哲学的にも歴史学的にも主要な問題である。

言葉に疎外されている!

 マルクス(正確にはフォイエルバッハ)の生み出した概念に「疎外」というものがある。人間の作り出したはずのものがやがて人間の思い通りにいかなくなり、勝手に「動き出す」という現象だ。マルクスはこれを資本主義の分析に使用した。人間はかつて手ずからものをつくって生活の糧を得ていたのだが、資本主義の成長にともなって労働(と、それを作り出す大本である資本)から疎外されてしまうのである。

 疎外の概念はおそらくヴァルター・ベンヤミンによって言語哲学の領域にもたらされた。彼の言語哲学においては、人間の言葉は人間によって使用されるものではない(彼はこれを言語のブルジョワ的理解と言う!)。神が持っていた完全な言語[1]を不完全なかたちで分け与えられたものであり、それゆえに思い通りにはならないのである[2]ベンヤミンの思想的背景である、ユダヤ神秘主義マルクス主義の奇妙な結合があらわれている。

 

 そう、人間は自分の話す言葉から「疎外」されているのである。物書きの経験のある人ならわかるかもしれないが、しばしば言葉は自分の頭の中にあるイメージとは違ったかたちで動いていく。このときにはある種の不自由さを覚えるはずだ。しかしながら、それをフィートバックして「自分はこういうことが言いたかったのだ。」と気づくこともまたしばしばあるだろう。手を動かせ、アイデアは紙に書いた方が良いと言われるゆえんである。これは言葉に疎外されていることによる創造的な面である。言葉が自分の思い通りにならないがゆえに、まさに自分の外からクリエイティブな発想がうまれてくることもある。

 だが自分の思い通りにならないということはもちろん悪いこともある。自分の頭が、うまれてくる言葉に引っ張られてしまうのだ。この場合、言葉はわれわれの思考を過度に自由にしていると言えるだろう。ウィトゲンシュタイン論理実証主義者が避けようとしたのはおそらくこの現象である。ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』において「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」と言ったし、カントは『純粋理性批判』で経験がわれわれの認識を訂正してくれないようなところで理論的認識を試みてはいけないと戒めたのだ。

 以下のような論争を見てみよう。

 

「神は全能である。しかし、その内実は不明である。いったい、神は矛盾も可能なのか?」

「神にとっても矛盾は不可能である。神はあくまでも可能性の範囲内で全能なのである。」

「神は矛盾も可能である。われわれにとって可能性の外にあるようなことでも、神は思考することができる。」

 

 これを見た現代の人々がまず思うことは、「神が全能であるかどうかと言っても、そもそも神がいるかどうかということすらわからないんじゃないの?」という疑問だろう。確かに歴史上神の存在証明についての議論もあったには違いないが、中世の多くの人々は神というものについて、「いないと言うのはなんだか直感には反するなあ。なんだかんだいる気がするなあ。」と感じていたはずだ。この「気がする」がおそらくポイントだ。多くの人々が当たり前のように「神」という言葉を「使用する」ことによって、あたかも神が存在するかのように感じてしまうのである。これは資本を持っていることによって何でも手に入れられる「気がする」ことに似ている(さすがに強弁かな?)。

 神や魂といった概念は今や多くの人々にとって指示対象の存在を疑われているものだが、現代においても似たようなかたちで人間の言葉の中に出現するものはぼくの見立て上たくさんある。それらの概念は非常に多くの人々が所与のものとして「使用している」概念で、その存在を疑う人はずれた人であり、場合によってはやばい人ということになるだろう。

 次のような会話を見てみよう。

 

「J.S.ミルは人間の自由の権利について、他者に危害を加えない限りでいくらでも認められるべきだと言っている。」

「それはどうだろう。堕落して無意味な人生をおくってしまわないように、もっと自由の権利の範囲を狭めた方が本人のためにもなるのではないだろうか。」

 

 この会話で神や魂と似たようなかたちであらわれているのは「自由」である(権利とか、意味とかを挙げる人も少なくなさそう)。この会話では、人間は自分の人生を自分自身で選択することができるということが前提されているが、自由の概念を見直してみたときにどれほどその概念の存在や、概念の示す範囲が妥当だろうか。「基礎づけはおいて、仮の条件のもとでの議論をしているのだから余計な口をはさむな。」と当事者たちは言いたいところだろうが、本当は存在しないもの(もしくは示す範囲が想定より極めて狭いもの)についてまるで存在するかのようにして行われる議論の価値の大きさは、彼らにとっては神の万能性をめぐる議論の価値とほぼ同じくらいだろう。

 このような例は経験がデータを与えてくれる議論とそうでない議論との違いを考えるうえで示唆的だ。つまり、前者(実験物理学とか、データを観察する社会科学とか)は短いスパンで経験が論証に対して強固に反発してくれるのですぐさま言葉を訂正するチャンスが与えられるが、後者(哲学とか、数学とか、あと文学とか?)は強固に反発してくれる経験がない。まさに自由に語ることが(一応は)できる。ただし、議論の正しさを保証してくれるのは論証の正確さしかない。ところが論証が正しくても、話題の対象となる当の概念(の指示対象)の存在や命題の妥当性が怪しかったら、実体のない基礎の上にはちゃめちゃな建築物を建てていることになる。おまけに、そのような議論がフィートバックして、あたかもその議論が自分にとってなんらか意味や価値を持っているかのように感じられてしまうのだ。本当は何も生み出してはいないのに。

 人間は言葉から疎外されているがゆえに、言葉を「使用する」ときには極めて慎重にならなければならない。言語を手に入れることによって世界を認識できていることにはならないのだ。むしろ、存在しない虚像を定立してしまっているのかもしれないのである。言葉の暴走への意識がなければ、言葉は正確な世界像をもたらしてくれるどころではない。自らの目を曇らせる負のフィードバックをうみ、世界は世界でなくなり、自分は自分でなくなってしまう。言語に対するきめ細やかな感覚を身につければ、やがては世界や他人、自分を正しく見つめることができるようになるだろう。逆にいま、言葉で世界や他人、自分を「自由自在に」捉えて、定立された虚像に対して不当に憎み、悲しみ、怒りをぶつける人はとても多い。このような人々は不幸だろう。もっとも、それなら言葉でものごとを正しく見つめられるようになればしあわせなのかという問いに応えることはできないのだが。

 

[1] 旧約聖書では神は言語によって世界を創造する。

[2] ベンヤミン『言語一般について また人間の言語について』 河出文庫

本の読み方

 本が読めない、しかし読んだ方がよい気がするという声をよく見聞きする。読んだ方がよい本というものがあるかはわからないが、読めるに越したことがないのはもちろんだ。そこで僭越ながら、わたしの本の読み方を共有してみようと思う。参考にするなり、反面教師にするなりしてもらえると幸いだ。これよりも良い方法が見つかったらわたしにも教えてほしい。

 

0.大前提

肝に銘じておくことがある。それは、

 

本は、基本的には読めない

 

ということ。

 細かい字が無数に並んでいる。それを目で追う。これだけでもう、わたしたちの視神経と脳みそは疲れ果ててしまう。目のレンズなどの調子により、体質的に読みづらいという人もいるだろう。また、本を読むときには、じっとしていなければならない。これは意外と難しい。動かなければ、支えにしている肘がいたくなる。腰がいたくなる。肩もこる。目のみならず、身体中がきしむ。なんだか他のことが気になってくることもある。

 さらに、たとえ肉体的なハードルを突破したとしても、難関はまだある。わたしたちはまず、文章に現れた著者の論理を追う。次には、文脈と文章の調子からその内容がどれほどの真剣さを持つのかを斟酌する。さらには、著者自身が置かれたさまざまな歴史的社会的状況を踏まえて、わたしたちの読解に肉付けをする。こうしてようやく、著者の言いたいことの妥当な解釈へとたどり着くことができるのだ。しかし悲しいかな、真に著者の言いたいことを理解できているのは、内容全体のうちせいぜい2,3割だろう。それほどに、本を読むということは難儀なことだ。

 人間であれば、本は基本的に、ゆっくりゆっくり、飴を溶かすようにしてしか読めないとわたしは思う。内容を噛み砕くという表現すら、焦りすぎだ。逆に言えば、どんなに焦ったところで、いま読んでいる以上の効率で本を読むことはできないということだし、他の多くの人々もそれくらいの効率でしか読めていないということだ。おれって、ぼくって、わたしって、と自分を卑下する必要はまったくない。むしろ損なのは、それで本を読むことそのものを諦めてしまうことだ。一日一行でも、少しずつ読んでいけばいいとわたしは思う。

 

1.読める本

 なぜ本を読めないかを考えるために、読める本について考えてみたい。たとえば、新書は読めるだろうか。小説は、詩は、新聞は、ブログは、Twitterは、どうだろう。読めるものが見つかったならば、それはなぜ読めるのかを考えてほしい。新書や新聞は、主に現代のトピックについて扱う。わたしたちは、そこで書かれていることばについて大方のことを知っており、いくらか具体的なイメージを持っている。もちろん文脈や状況もほとんど共有されている。したがって、9割知っていることに1割知らないことを付け足すだけで良いのだ。ブログやSNSになるとほとんどコミュニケーションの領域になるので、読みづらさというものはほとんど意識されない。違った他者性が意識される。小説や詩に代表される文学作品は、現代のものであればほとんど苦なく読める。わたしたちは今まさに同じ時代を生きているからだ。

 

2.読めない本

 つまり読めない本というのは、その本をとりまく文脈が読む側と共有されていないために、本の内容に入り込んでいけないような本のことだ。代表は古典だ。だから以下では古典の話をすることにしたい。ところが古典は逆に一冊読んでしまえば、次の一冊、また次の一冊となるにしたがって文脈が蓄積してゆき、読みやすくなる(一冊読んだという成功体験も影響があるだろう)。だから肝となるのは、最初の一冊をいかに読んでしまうかということにある。

 

3.古典を新書・新聞化する、全体を見る、細部を見る

 1からわかるように、読めるようにするには、その本が書かれた状況へと近づいていくことが大事だろう。学術の古典なら、新書を読むように読み、新聞を読むように読みたい。文学の古典なら、現代の文学のように読みたい。

 よくまとめられている概説書があるならば、まずはそれを読むのが良いと思う。概説書としての条件を満たしている本には、本の問題意識や目的、そのときの状況や歴史も書いてある。なじみのない本を新書や新聞のレベルまで近づけてくれる。概説書は薄ければ薄いほどいいだろう。わたしたちが古典などを読むのは実際のテクストに触れることが目的なはずなので、必要なだけの知識を得たらできるだけ早く現物を手に取った方が良い。あまりにもテクストに肉薄しているものは概説書として不適切だ。

 では、実際に現物を手に取った後の話。

 全体像をつかむために必要なのは、本の問題意識(=書かれた動機)と最終的な結論や目的を意識し続けることだろう。どれほど難しくて入り組んだところで立ち止まっても、本全体の目的を常に意識しておけば、そこから逆算して「こういうことが言いたいのかな」と当たりをつけることもできるし、目的に関係ない補足的な部分だからわからなくてもさしあたり大丈夫だという判断もできる。前後左右もわからないような暗闇にあっては、より明るいところとか、風が吹いてくる方向を見つけることがもっとも重要だ。こういうことはだいたい序文に書いてある。序文にはスマートなものから冗長なもの、明確に問題意識を書き出しているものや著者のエッセイのようなものまでさまざまだが、書かれた動機と目的、そしてそれを探る方法論は書いてあるはずだ。本を読む間、その3つを常に念頭に置いておくことが重要だと思う。

 以上のようにしてわからないところは適宜読み飛ばすなどしていけば、核心となる内容を追って最後までいくことは神業を達成するほどには難しいことではない。だが、全体像をつかむだけでは実際にはそれほど豊かな内容を得られない。上述のところで古典を読むのはテクストに触れることが目的のはずと書いた。神とテクストは細部に宿る。

 それでは細部を詰めるにはどうすれば良いか。一度読み通して全体がぼんやりとでも把握できていれば、それをもとにだいぶ楽に詰めることができると思う。また、一度読んだ際に生じた疑問が蓄積されていて、自然と目につくようにもなっていると思う。すなわち、複数回読むのが一番いいということになるが、一度読んだ本は読んだという事実に満足したり、早く次の本を読みたかったりして、もう一度開く気がなかなか起こらない。できるなら一回目にできるだけ精密に読みたい。

 具体策その一。本全体の言いたいことを大目的とするならば、章、節、段落のそれぞれにも小目的があるはずだろう。細部を読み込む際には、その小目的を意識することが良い手助けになると思う。大目的をいったん忘れて小目的を念頭に置く。章なら節が、節なら段落が、段落なら文が、それぞれどのように小目的を達成するために機能しているか(あるいは機能していないか)をつぶさに見る。数学で最終的に達成したい定理の証明を保留して、そのために必要な補助定理などを証明していく感じだ。つまり、まずは大目的の定理を見たいから小目的の定理の証明は飛ばす。あとで気になる小目的の定理の証明を見返してみるとおもしかったり新たな知識のネットワークが発見されたりする。

 具体策その二。線を引くつもりで読む。実際に鉛筆やふせんを持って読み、気になるところにはどんどん線を引いてふせんを貼るのが一番効果的だろう。必然的に、一文一文に気を配るようになる。疑問を書きこむのも良いだろう。本を汚すことに抵抗のある人はそういう「つもり」で読むのもいくらか効果があるはずだ。ただ、だいたいは一度汚すと途端にどうでもよくなる。ノートを準備して書き写すのも良いかもしれない。しかし、ややめんどくさく読書の障壁になってしまう可能性が高いから推奨はできない。

 以上の二つをもっと組み合わせるとより効果的だろう。小目的ごとに、もっとも言いたいことを凝縮していると思うようなところに線を引く。読み返したときに線を引いたところだけ読めば本の要約になっているという具合になるだろう。

 要するに、現代文の問題を解くようにして読めば良いということになる。しかし答えは決まっていないから、線を引いたところ、要約の仕方も人により異なり得る。

 

 これだけ意識するとそれなりに本を読めるようになるはずだ。0で掲げたような前=読書的なハードルも、以上の手段によって新書・新聞レベルにまで身近に引き寄せればいくらか低くなると思う。とはいえ、本を読むのはとても疲れるし簡単ではない。重要なのは、一日一行でも読むようにすることだろうというのは、0に書いた通り。終わり。

科学・人文学・アカデミズム

タイトルの意味
 人文学を大学の中で生き残らせたいならば、大学が人文学を保護する意義をしっかりと説明する必要がある。たとえば人文学が人類に必要であると言ったところで、それを大学が保護する必要があると説明できてはいない。人文学を保護する意義を説明するためには、人文学=humanity=教養、科学=science=実践、そして現在のアカデミズムを分析する必要があるだろう。

現在のアカデミズム
 現代に人文学がどう生き残るかを考えるならば、人文学が根をおろしているフィールドであるアカデミズムがどのような力学で動いているかを考えなければならない。アカデミズムの目的とは何なのだろうか。もちろんそれは知を探究する共同体を作り、維持し、知を蓄積させていくことだと思う。しかしこの論稿で重要なのは、アカデミズムを非アカデミズムの論理で動いている社会がどう見ているかだろう。日頃ニュースや新聞やSNSなどでアカデミズムについて議論が交わされるとき、いかなる価値観が議論を支配しているだろうか。アカデミズムは(ご多分に漏れず)「役に立つ」という観点から論じられるだろう。「役に立つ」という概念をえらそうに分析しても生産的でないので、この文脈では「問題を解決する」「社会の経済的豊かさに貢献する」「人の日々の食事を豪華にしたり、死亡率を下げたり、エンターテインメントを発達させるなど幸福の総量を増やす」というほどの意味だと仮定しよう。このような価値観に沿う限りで、企業の研究開発が行われたり、国家が国民の税金を国立大学の運営交付金私学助成金に回したり、研究プロジェクトの支援費に回したりするのだ。現在、日本のアカデミズムがその存在を国家に保障されているのは、アカデミズムが役に立つと見なされているからだ。

科学=science=実践
 以上のようなアカデミズムは、いわゆる実践的な学問だ。実践とは、ここでは客観世界への働きかけを通して、世界を改変していくことというほどの意味である。人類は歴史を通じてこの客観世界を「正確に」述定し、変化させる方法を洗練させてきた。その方法は一般にscienceと言われるものだ。科学は古典古代においてはせいぜい自然や人間を理解するための一手段に過ぎなかったが、やがて魔術や錬金術などをその有用性や汎用性の面で蹴落とし、積極的に人間の生きやすい環境を作り出すまでに成長してきた。はじめは人間の動物的生活を便利にする技術(これにもscienceの意味がある)が発展し、やがて社会的生活を自由に送れるようにし、様々な困難を解決する手段や筋道をわれわれに与え、価値を創造することもできるようになった。世界を「見る」手段であったscienceは、世界に「働きかける」手段となったのだ。
この「転倒」については、ハンナ・アーレントが『人間の条件』で幾度も強調したことだ。簡単に言えば、scienceの権威が認められるにつれ、人間活動の最上位の座が、観想的生活(世界を「見て」色々考える哲学者ライフ)から実践的生活(世界に積極的に「働きかけ」てゆく職人ライフ)にとって代わったのである。昔は何もしないでああだこうだと考えることが最も「人間らしい」活動だったが、いまや「人間たるもの(社会的な)何かを為すべし。」の世界観ということだ 。

人文学=humanity=教養
 それでは、humanityとはいったい何なのか。なおここではhumanityは歴史、文学、哲学、神学といった「人文学」のことを言うことにして、法学や経済学、社会学はscienceと見なすことにする。
 まず、scienceとの違いに着目してみたい。scienceの特徴としては、客観世界とかかわること、体系だっていること、汎用性があること、反復できることなどが挙げられるだろう。これに対してhumanityは主観に関係する。人の記述を相手にするものだからだ。記述と言うのは厳格なルールが定まっていないために、まず体系だっていない。したがってscienceのように積み上げによる効率的な学習を行うことができない。自然言語はその意味の範囲が明確でないために、汎用性もない。つまり、狭義の科学者が数学的な手段でコミュニケーションをとっているようにして、共同体の中で共通コードを用いることが(表面的には可能だが)ほとんど不可能である。このゆえに、正解も存在しない。humanityが出した答えには、実験も、概念体系の整合性も、共同体も、応えてくれないのである。そして、強固な体系もコードもないために、反復性がない。だから、humanityは原典にあたることを研究上の最も重要な方法の1つとする。それは以上のような理由によって、ある研究者が他の研究者の論稿を解釈し整理した文章を読んでも、体系を反復することがまったく不可能だからだ。
 
humanityの来る道
 この通り、非常に扱いづらい学(と呼んで良いのかも定かではない )であるhumanityは、どのようにして人類に役立ってきたのだろうか?
 かつてはscienceも限界を迎えるのが早かった。研究はもっぱら個人が行うものだったし、国家をあげて研究資金を補助してくれるわけでもないし、なによりも人間の脳みそしか使うことができなかった。人は他人の考えることを知ることはできないし、社会全体の力学を把握することもできない。地球を外から見つめることなどできないし、宇宙の果てなど論外だった。不可知の領域が非常に大きかったのである。そこで、scienceと双輪を成すかたちで求められるのがhumanityだったのだろう。他人がどう考えるのかを考えるには、まず自分がどう考えるのかを検討して、それを同じ人間である他者に投影してみればよい。社会を見るなら、人が社会を見て書いた文学や他の芸術作品を観察してみればわかることがあるだろう。あるいは、思いつく限りの社会形成を物語って、現状と比べてみればいいかもしれない。宇宙のことはわからないけど、なんとかアナロジーで像を描くことができるかもしれない。人間や自然がなぜこれほどよくできているのか、人間はなんのために生きるのか、それはおそらく人間よりも高度な存在にしかわからない。自然言語を用いるhumanityは、方法が厳格なscienceよりも自由に論じることができる(ように感じられる)。それだけに、scienceの行き届かないところはhumanityの領域だった。
実際、よく学んで知性を身につけた人の直観は、おそらく信頼に足るものだっただろう。不可知の領域が大きい状況では、とにかく肉眼で見えるものを正確にとらえる訓練さえすれば、誤りに陥ることは少なかったに違いない。そういうわけで、scienceは専門的で論じる範囲が狭いのに対し、humanityは全般的な語りができていたために、humanityが知性を持った人のやることであるという認識もあったのかもしれない。そのような人々は教養人と呼ばれた。教養は、もつことを目的とされるほどの性質だった。観想的活動が最も人間らしい活動であったと言われていたことも、上のような状況では成り立っていたのだろう。
 
humanityのデフレーション
 しかし、scienceは不可知の領域をどんどんと開拓していくことに成功した。とくに近代科学の方法が確立して以来、世界を整合的に説明することに成功し、人々の生活を楽で豊かにしたのは紛れもなく近代科学の方だった。それでもなお、複雑性の高い社会、生物、宇宙などというものについてはscienceも太刀打ちできなかった。決定的なのは、おそらく科学の大規模化とコンピュータの登場だろう。二度の世界大戦を経る中で、科学は個人の研究から共同体のプロジェクトへと変身を遂げ、学問のシステムもそれを念頭に整備されるようになった。アメリカで勃興したプラグマティズムという思想は、明確にこの影響を受けている 。また、コンピュータの著しい発展によって近代科学でも立ち向かいようのなかった領域にscienceは進み、その成果は今を生きる我々には明らかなところである。反対に、humanityはその組織化の流れにうまく適応することができなかった。その原因は上述の通りで、そもそも共同プロジェクトとして進めることのできるような性質を持ち合わせていないのだ。また、研究の対象をコンピュータが処理することのできるような定量的なものに還元することも、humanityはできない。それはscienceの十八番で、コンピュータはせいぜい補助手段にしかならない。そのため、体系的な学習を行った科学者が(非アカデミズム社会に見えるかたちで)様々な問題を解決していくscienceに対して、humanityは問題を解決することができないどころか、そもそも何をやっているのかわからないとまで言われてしまう。そして、少なくとも日本のアカデミズムにおいては、humanityは国民の血税を浪費して空理空論をこねる人々のあつまるところとして、その非生産的な面が批判されるという流れが繰り返されることになる。

humanityの位置づけ
それでは、本当にhumanityは問題を解決したり、冒頭にあげた「役に立つ」あり方として力を発揮したりできないだろうか? humanity役立たず論の核心である。上にあげた分野のうち、歴史、哲学、文学についてそれぞれ(!自己流で!)検討してみる。これがうまくいけば、アカデミズムの中で人文学を守ることができる。
・歴史:歴史は「物語る」という面では非常に人文学的だが、そもそも実証研究はscienceの方法に沿って行うことが可能だろう。役割で言えば、間違った歴史を物語ることを防ぎ、社会のアイデンティティを正確に述定するためものとして不可欠だろう。ところで、例えば歴史学科を廃止したとして、学術研究において正確な歴史事実をアーカイブすることは必然的な要請だから、そもそも歴史学の営みをなくそうと思ってなくせるものでもないだろう。しかし、各学科に○○史という個別の歴史を物語る人や組織があったとしても、歴史学の方法をメインとして学習し物語を構成することは、非アカデミズム社会にとって必要なことだから、組織としての歴史学科は廃止しないほうがよいだろう。
・哲学:哲学は論じる範囲が多種多様であり、科学の基礎づけから人生の意味などというものまで広く扱うから一概に結論づけることはできない。しかし、まず哲学によって人間や世界を正確に認識しようとするような(「である」を扱う)態度は排除されるべきだろう。いま人間や世界について述定しようとするならば、有用性と整合性はscienceの方法によって蓄積されてきた知識の体系の方に明らかに分があるのであり、それを避けて通ることは嘘だからだ。したがってこの面では、哲学はscienceで用いられる概念の使用法を明確にするとか、理論の出発点を吟味するとか、そういう付随的な学として存在する。でもこういうことは哲学者よりも前線にいる当の分野の学者がやっているはずだから、哲学科という組織として扱うことに有意な有用性があるのかは疑問である。「哲学は問題を発見し、科学が解決する」というのは、おそらく誤りだと思う。問題を発見しているのは、当該分野の第一人者だろう。そのような意味では、哲学の研究者が科学者と相互に影響を与えあっているというよりは、前線に立つ学者が必然的に哲学をやっているのだろう。一方、哲学は「べし」を扱う分野にはつよい。なぜならscienceで「である」をどれだけ正確にやり遂げても、「べし」は導出されないからだ。「べし」は経験をよりどころとしつつも、思弁の世界から降りてくる領域だ。法学や社会学も規範的な議論をするときはhumanityの手を借りざるを得ない。したがって「べし」の領域だけは、哲学がアカデミズムの中で活躍できるし、保護される必要のあるところだろう。それでもなお、「べし」についての議論が実践の場に影響を与えているのかどうかを目に見えるかたちで検証することはできないため、非アカデミズム社会にその有用性をしっかりと説明していく必要があるだろう。
・文学:人文学が攻撃されるときに最も頻繁にやり玉にあげられるのが文学だろう。文学は外的な目的としては、人が表現したものを解釈すれば、例えばその人が育った社会について考えることができるし、人間の思考というものに類型を見出すこともできるかもしれないというようなことが挙げられるだろう。しかしこれまでの概観でそのようなことはscienceによってより正確に述定することができるようになったということがわかるので、いまそのような意義があるのかはわからない。卓越した感性を持つ人々のみずみずしい情動を汲み取ることは、文学研究の専売特許かもしれない。だがそのような研究を国民の血税を投入して行うことを非アカデミズム社会が認めてくれるのかどうかは、わからない。
 humanityは見える範囲の世界をうまく述定し、改変することができるというわかりやすい指標がないために、その有用性も感じづらい。それだけに、「社会になくても困らないんじゃない?」という疑問を覚えるのも理解できる。しかし上で見たように、humanityが必要とされる領域はまだまだある。また、個別の学問の有用性のほかに、常に社会を多面的な価値観(価値観は「である」によって記述することはできない)によって観察し批判する人々の共同体を確保し、社会変革の可能性を担保するなどhumanity全体としての有用性もある。いずれにせよ、人文学をアカデミズムで守りたいならば、「体系だった説明を」、「共同体のリソースを部分的に投入する正当性を意識しつつ」、「多くの人の目に見えるかたちで積極的に」行わなければならないだろう。それを放棄して共同体のリソースを無用に消費せよと主張したところで、むしろ逆効果になってしまう。

東大オケ定演2018/01/14

今日聴いた東大オケ定期演奏会で、オーケストラの生演奏を聴くのは3回目(記憶にある限り)。めっちゃ良い体験だったので書き残しておきたい。ちなみに過去2回は東京外国語大学のオケだった。誘ってくれた友人に感謝したい。

 

それで、良かったと思えた根拠は2つある。

 

1つ目は、陶酔感があったということ。良い体験と言うと、楽しくて我を忘れるとか、時間が早く過ぎ去るとか、そういうことだと思うけど、まさにそんな感じだった。とても心地よい2時間だった。聴いていていろいろな感じとか、いろいろな考えが流れては消えていったのはきっと音楽に対して無心でいられた証拠だろう。回りが気にならなくなる具合の没入感があった。そういう意味で、とても良い体験だったと思う。バンドのライブもこういう高揚感があるのだろう。生演奏が一番というのは、まったくその通りだと思う。会場に聴衆の期待感とか演奏者の緊張感とかが感じられるみたいなのとか。Youtubeベルリンフィルよりも生の日本のフィル!

 

2つ目は、次に色々聴いてみようという気持ちがわいてきたこと。東大オケがこの会場でこれくらいの演奏をできるならば、NHKとかウィーンとかベルリンだとどうなるのだろうかとか、ブラームスでなくてベートーヴェンだったらどうなのだろうかとか、そういう「次また演奏会に出向きたい」というモチベーションがわいてくるような演奏だった。この演奏が、いわゆるクラシックを聴くことの「成功体験」だったということだ。次へとつながる体験は良い体験に違いない。

 

曲目で言うと、最初の2つの交響詩、とくにレ・プレリュードが良かった。演奏の問題と言うよりも、楽曲の問題で、おそらく2つの交響詩は素人が聴いても素朴に「いいなあ」と思えるようなわかりやすい構成なのだろうと思う。解説にもあったけど、具体的なイメージで音楽をつくるので、作曲者のイメージが聴く人にも伝わりやすいのかもしれない。ローマの噴水でローマの噴水がイメージされるかどうかはさておいて。それで、ブラームスの4番は通の友人が「良い」と言っていたのでおそらく演奏の質は高かったのだろうと思うけど、正直ブラームスは玄人好みの作曲家なのではないかという感じがする。明確に盛り上がるところもなければ、静かになるタメの部分もわかりづらい。素人にはメリハリがないように感じてしまう。だから、今度はベートーヴェンの演奏も聴いてみたいなと思った。さすがにベートーヴェンなら良さがわかるはず。たぶん。

 

以上が演奏会自体の良さ。

 

全然関係ない話として、ローマの噴水を聴いて、自分は「ドラクエや、ドラクエ!」としか思えなかった。すぎやまこういちの作曲意図が「ゲームにクラシックを持ち込む」ことだというのは知っているけど、「ドラクエの音楽を聴いてクラシックを連想する」ことがあっても、その逆を感じるとは思わなかったので、我ながらびっくりした。正直聴いてわいてきた光景はローマの噴水じゃなくて、船が海を渡る様子だったし、神鳥のたましいで空を飛ぶ様子だったし、不穏なイベントが起きたときの雰囲気だった。ここは自分のイメージの俗っぽさを嘆くよりも、そのイメージを引き出すすぎやまこういちの技量をほめたたえるべきだろう。すごい。

 

あと、リストの曲目解説の冒頭の文章は名文でした。文才もあったのですね。

 

というわけで、非常に良い演奏会でした! もっと色々な演奏会に出向いてみたい!

無性別主義を夢想する

性別神話と言うべきものについて

10代~20代で恋愛経験を積んで、30歳くらいで結婚して子どもをもうける。そうしたら女性は家人として、男性は稼ぎ手として、家庭を支える。こうすることで、個人が幸せであるばかりか、人間の再生産を行い、国家民族を維持することができる……。以上のような、とくに近代以降ヨーロッパからアメリカ、日本などで「流行」した、家族形態を基本とした社会は、20世紀後半からの少子高齢化フェミニズム運動、性的マイノリティの台頭による性別概念の変容などなどに伴って、徐々にその歪みが発見されてきた。

わたしは、今日の日本や欧米における問題の大きな要因の1つとして、「性別神話」とでも言うべきものが長く影を落としていることがあるように思う。すなわち、男・女という区別、さらにセックス、恋愛、結婚といったもろもろの男女関係に関する「神話」が、さまざまなかたちで語られ、その神話を強化してきたのだ。さまざまなかたちというのは、まずは中世や近世におけるキリスト教(これもいろいろあるが)と結びついた政治権力による構図の規定にはじまり、近代から戦後において加速した小売やサービスに携わる企業の販売戦略によるイメージの固定化、そしてそれと並行して根付いてきた社会通念などが挙げられるだろう。

現代思想の一大潮流としてある、フェミニズム運動は、女性参政権獲得から考えれば(ここを出発点として良いのかはあやしい)100年近くに及ぶ。この思想は既存の男女区別に挑戦したものであるが、いまだ男女区別を超越する段階には至っていない(そもそもそれは目的ではないだろう)。しかし、重要なのは、フェミニズムに加えて、LGBTQの権利獲得運動も盛り上がりを見せているというところである。わたしは、今日のようなアイデンティティの問い直しの風潮を鑑みて、そろそろ、次の段階に進む可能性が開けてきたのではないかと思う。

わたしは、以上のような神話を解消し、無性別主義(これは完全に造語)とでも言うべき姿勢を構想してみたいと思う。近現代を乗り越える最終局面への1つの足掛かりとして、試案(というより夢想)してみたい。

無性別主義へ

 無性別主義とは、基本的には男女の区別、とくにその身体上の区別をできるだけ極限にまで抑え、男女の区別から生じていたさまざまな軋みを解消しようとする姿勢である。括弧に入れられ得るものはすべて括弧に入れてしまおうということである。ここにおいてわたしは、何よりも1つのことが重要だと考える。すなわち、

 

セックスから特別な意味を引きはがすこと。

 

これである。もっとも、これは出発点ではない。なぜなら、解消するべき対象であるところの性別神話と、相互に結びついているからである。どちらが卵なのか、決めようがないのである。だから、別の方向から性別というものを問い直させるような契機があって、その問い直しと並行して行わなければならないのである。これについては後述される。

セックスは、非常に大きく男女の身体性に依って成り立つコミュニケーションである。そしてコミュニケーションの段階としては、最後に来るものである(本当か?)。一般的に、恋人であるかどうかは、セックスが許されるかどうかで決まると言ってよい(本当に本当か?)。また、最近は必ずしもそうではないが、子どもをもうける際にはセックスをしなければならない。このような、コミュニケーションとしての特異性が、「性別神話」を維持し、あるいは強化する大きな要因であると思われる。したがって、セックスから特別な意味を引きはがすことは非常に重要なことである。しかし、無論これはかなり困難な業であることは疑いえない。

セックスを格下げする

具体的な策として、何が考えられるか。わたしはセックスを、単なるコミュニケーションに「引き下げる」ことで、1つの方向が開けるのではないかと考える。セックスという行為は、大きく2つの要素に還元される。2人で性欲を解消するということ、かつ相手との特別親密な関係を意識したコミュニケーションをとるということ、この2つである*1。こう考えたとき、セックスは形式としては、たとえば2人で食事をすることにかなり近いのではないだろうか? すなわち、2人で(とくに同じものを食べた場合は)食欲を満たすということ、そしてもちろん食事中にさまざまなかたちでコミュニケーションをとるということ。そう考えると、セックスから愛を確かめ合うとかいう意味をなくしてしまって、食事をするとか、一緒に遊ぶとか、そういうレベルのコミュニケーションに認識を変換するということは、なしうることではないだろうか?

格下げするための2つの契機

しかし上のようなことが実現されるには、セックスが「男女間で」「恋人の間で」行われるものであるという強固な社会通念を打破しなければならない。ここで重要なのが、LGBTQ運動が盛り上がっている、そしてSNSの普及による簡単な「出会い」が一般化しているという、この状況があることである。これが上で述べた別の方向からの契機である。

言うまでもなく、LGBTQはセックスや恋愛が男女間で行われるものであるという「常識」を破壊する運動である。これは政治的にはおそらく結婚の権利というかたちであらわれているだろう。レズやゲイならばまだよいとして、Xジェンダーの人々などはかなりアイデンティティで悩んでいるという人も少なくないだろうと思われる。このような人々が存在するということはすなわち、男女の区別を「もうける」ことに疑問をさしはさむ余地があることの強力な証拠になる。ジュディス=バトラーが言うように、ジェンダーのみならずセックスも文化的に形成されているものなのであると考えることもできるだろう。この観点からセックスを捉えたとき、それは何も男女で行われるものではない。せいぜい、相手が人間であり、そしてしたいと思う相手であれば良いのである。

さらに現在、SNSのインフラ化によって、簡単に「出会う」ことが可能となった。これに伴って、セックスのエンターテインメント化とでも言うべき状況が生じている。これから必死に声を上げなくとも、すでに一部の人々の間では(表面化しただけで昔からそうだったのかもしれないが、しかし表面化することが重要であるとも言える)セックスは恋人とする特別なものではなく、条件がそろえば誰とでも行い得るものになっている。したいのだから、すればいい。この態度を推し進めていけば、セックスが恋人の間で行われる特別なものであるという通念を破壊することができるだろう。食事と同じ、一緒に遊ぶのと同じものと考えればいいのである。

 

 

 

こうしてセックスから特別な意味が失われれば、男女関係の、とくに性欲にまつわる部分の問題がかなり解決(解決されなくとも解消)されることになるだろうと思われる。無性別主義から導かれる社会の変容については、後の記事に譲りたいと思う。

*1:ここでは、生殖という目的があることは意図的に無視する。話が混み入ってしまう。

誠実であることは不可能だ

人に対して誠実であることは難しい。誰それは誠実だというとき、誠実という言葉は何を表しているだろうか。この観点から考えることで、誠実であることの困難さ、もっと踏み込んで不可能さを考察してみたいと思う。

たとえば、うそをつく人は誠実とは言えないだろう。なぜうそをつくと誠実ではないのだろうか。うそをつくとき、うそをつく人は何を考えているだろうか。たとえば、うそをついて相手が困惑する様子を見たいときには、相手を或る種の玩具としてとらえているといっていいだろう。相手の人格をないがしろにしておいて、とりあえずの反応で自分が満足すればいいというわけだ。また、相手を出し抜きたいときには、より露骨に相手の人格を無下にしていると言っていいだろう。相手を、うそをつくという仕方で操作しているのだ。

つまり、うそをつくことが誠実でないのは、相手の人格を尊重せず、自分の欲望を満たし目的を果たすための手段として相手のことを利用しているからだと言えるだろう。

たとえば、暴力を振るうのは誠実ではないというのは合意を得られるだろう。これもうそをつく場合と同様にして、暴力を振るうことが目的であるにしろ、相手に言うことを聞かせるなどの手段として暴力を振るうにしろ、相手を自分の欲求を満たすための手段として利用していることが問題なのだ。

以上のことから考えると、誠実であることには、相手の人格を尊重し、相手を目的として扱うということが決定的に重要であることがわかってくる。この際留意が必要なのは、誠実であることは態度の問題であるということだ。たとえば上の例に沿って、暴力を振るうことで、振るわれた相手がより強い痛みに耐えることができるようになったとしよう。このとき、暴力を振るった当人が相手に対して誠実であったとは到底言えないということは、我々の日常の感覚としてある。誠実とは結果の良し悪しではなく、相手を尊重し、常に相手を目的として扱うという、持続的な態度のことなのだ。

さて、基本的な誠実概念の分析は以上のようなものになるだろう。一見、誠実であることは可能であるように思われる。実際問題、人格をないがしろにするという状況はほとんどないのではないか? ところが、誠実であることをこの概念に基づいて追求すると、非常に大きな困難にみまわれることになる。

われわれには、少なくない友達がおり、あるいは恋人がいることだろう。普通の感覚として、われわれは彼ら、彼女らのことを大切に扱っていることだろう。しかしここで1つの問題が提起される。

そもそも、なぜわれわれは友達をつくり、あるいは恋人をつくろうとするのだろうか?

ある人は、友達や恋人はつくるものではない、自然にできるものだと言うだろう。ことの真偽はさておき、自然にできることが本当だったとして、それでも問いは同じである。

われわれは友達や恋人という関係を、どのようなものとしてとらえているだろうか?

最も皮相な関係で言えば、友達がいないことによって、大学の講義を休んだ時にノートを貸してくれる人がいない、勉強していてわからないところを聞くことができないといった不都合が生じるから、友達を維持するという場合がある。もっと深い関係を考えると、悩みごとなどを相談することができない、体験を共有する人がいなくてむなしい、さびしいので友達がいた方が良いという場合がある。

恋人になるともっとプライベートな領域になって、そもそもいるという事実に価値がある(これは友達もそう言えるが)、特定の体験だけでなく、日常をも共有できる相手がいる、愛情を相互に与えあうことができるから恋人はもちろんいた方が良いということになるだろう。

ここで、誠実であろうとする態度をもって、問わなければならない。以上挙げた中で、相手を手段として扱っていないという例が1つでもあっただろうか? それとも、上のような例は恣意的な挙げ方で、ほかに相手の人格そのものを目的として扱うという可能性があるだろうか?

このように言う人もいるだろう。とくに恋人に限って言えば、愛情を相互に与えあうことで相手も幸福になっているはずだ。にもかかわらず、恋人を手段として扱っていると言えるのか。

ここで誠実であるためには、相手との関係において自分の利益を目的としてはいけない。常に相手の人格を尊重しなければならない。しかし、恋人にするとき、我々はその人を「選択」する。この「選択」を誠実に行うとき、それは相手がこちらと恋人になりたいという要望に応えるかたちでしかあり得ないということがわかる。このことから導かれる結論は、誰にも要望されない限り、恋人をつくるという選択は相手を手段として扱うということになるし、あるいは複数人から要望されたときには、できるだけそれに応えなければならないということだ。なんとも受け入れがたい結論である。

友達についても同様だ。我々は、友達を「選択」している。誠実に友達をつくるならば、相手の要望に応えるというかたちでしかあり得ないが、そのような場合はほとんどないからである。それどころか、相手の要望に応えるその時にすら、われわれは自己利益を考える。いま向かいにいるこの相手と、どれほどの距離感が自分にとって最も良いのかと考えざるを得ないのである。相手のことを思って友達になるというのは、なんと傲慢にすら聞こえるのである。

このように考えると、われわれが誠実に友達や恋人関係を形成、維持することはほぼ不可能と言って良い。そこに「選択」という契機がある以上、すべては不誠実な関係へと陥ってしまうのである。このインモラルな関係が成り立っているのは、いうなればお互いに利用し合うという暗黙の了解があるからである。

しかし、われわれはこのインモラルな関係をやむを得ないものとしてストップしてしまう必要はない。むしろ、ここから誠実であることへと進んでいく義務がある。一度「選択」してしまい、その人と友達あるいは恋人になれば、1対1の関係が形成される余地がある。そうなれば、われわれはその関係のうちで誠実であることができるのである。ただ、この誠実さは友達と恋人でまた違った様相を見せる。

恋人は1人しかいない。2人以上作った瞬間、誠実さはあっという間に瓦解する。ゆえに、恋人との関係で誠実であろうとすることは相対的に困難なことではない。

しかし、友達は何人もいる状態が許容される。むしろ、多ければ多いほどその人の人格がすばらしいというような評価もされる。ところが、ここで数々の友達の中に待遇の差をつけることを考えよう。このとき、我々は同じ友達の枠の中で「選択」を行っている。すると、我々は友人を手段として見ることになり、誠実であることができなくなるのである。わかりやすいのは、ノートを貸してもらうためだけに友達面をする例だ。つまり友達に対して誠実であるには、すべての友達を等しく尊敬せねばならないのだ。これは非常に困難なことだろう。真に誠実であろうとすれば、そう多くは友達を持つことはできないはずだ。

以上が誠実であることの困難さ、あるいは不可能性をわたしなりに分析してみた結果である。まったく誠実であることは不可能だが、わたしはそれでも誠実であろうとすることに邁進したい。